ShortStory 【夢に破れ、また溢れる時】〜瞳と悠里〜 ③

「お母様から、貴方は疲れた様だからもう寝たって聞いたわよ」

「あぁ、違うのよ、それは。女優を目指すなら肌のケアは十代から気をつけろってママがうるさくてさ」

「ふぅん…私の親とは教育方針も環境も、何もかもがホントに違う。
ま、今夜は何にせよ、貴方とお母様には助けて貰ったようね。言葉に甘えてしまって…礼を言うしかないな。
それよりもいいの?寝なくて」

「いいの いいの。早く顔の痣…良くなるといいね。
それより先生。今夜だけじゃないわ。暫くはここで暮らして。両親もそれは承諾してるから」

「そんな訳にはいかない。彼には一晩だけの家出で頭も冷やすと思うから」

「駄目。先生、もし何らかの自尊心が帰ろうとさせるなら、そんな自尊心は捨てて。
もし先生が彼氏さんをまだ好きだとしても…捨てて。
あの部屋から何か持ってきたい物ある?衣服以外に…そうね、例えばアルバムとか…
家具や家電なんかはもうあの男にあげちゃいな。父が新しいの用意してくれるから」

「何を言ってるのよ。
そこまで大袈裟な事する訳にはいかないし、そこまで貴方達家族に甘える訳にはいかない。第一、私の人生、何故貴方に決められなくちゃいけないのよ。さ、もう寝ましょう」

「駄目よ、先生。もう少し話に付き合ってよ。先生はもうあの男の元へ戻っちゃいけないってば」

「わかったから。今日はもう彼の話も荒木先生の話も、男の話はウンザリなの。ホントに今日は驚かされたわよ。貴方たち親子には。お願い、寝ましょ」

「ママから聞いた?叔父さんの話。ママはよく、子供の頃の話を聞かせてくれたわ。いつも「お姉ちゃん、お姉ちゃん」って、ママの後ばかり追いかけてたってさ。
ねぇ、先生?私は昔から友達らしい友達もいなくて、体調崩して修学旅行も行ってないしこういう風に夜の寝室で恋バナとか青春ゴッコするのが憧れだったの。
舞台の話でもいいわ。あと少しだけ付き合ってよ」

「10分だけよ」

「やっぱり!叔父さんの話、もっと聞きたいんでしょ!」

「馬鹿言ってるんじゃないの」

「またまた〜、強がっちゃって」

「それより友達いないの?貴方?」

「友達ね…表面上はいるわよ。でも本当に心開ける人はいない。演劇部のみんなも友達というのとは違うわ。
そういう先生はいたの?友達?何となく…同じ匂いを感じるんだけど」

「まぁ、私も似た様な物ね…」

「先生…初めて男の人に抱かれた時はどんな感じがした?」

「貴方ね…教師に普通それ聞く?しかも突然…フッ
まったく…どう答えたらいいのよ…
貴方は好きな人いるの?」

「好きだったのかなぁ…よくわからない。お付き合いしてた人はいたよ。彼とも寝てみた。クラスは別なんだけど…小林鋭士君っているでしょ?」

「ちょっと。小林君って…あの少し不良ぽくて目立つ子でしょ。貴方とは不釣り合いに見えるけど?」

「まぁね。彼は両親が離婚してお父さんと暮らしてるんだって。お父さんは何して働いてるのかはよく知らない。ただ、彼はウチの両親は絶対に交際は許してはくれないタイプね」

「それで?どうだったの?そっちの方は?」

「うん…気持ち良かったとは思うわ。でも彼って、悪ぶってる割には慣れてはいなかったよ。初めてだったけど、上手くはないんだってわかった。オーガズムを知りたいの。だから彼とはもういいかな…って」

「は?ちょっと貴方、何考えてるの?ベッドシーンでも演じる気?それに…彼が好きでセックスしたんじゃあないの?」

「好きだよ。少なくても嫌いな人とは寝たりしない。でもね、先生。私は恋愛もセックスも経験ないとさ、演技に生きないと思ってるのね。芸の肥やしって訳。私が恋する理由なんてそんな物」

「貴方…もしかして小林君と付き合ったのもロミジュリの身分違いの恋を…」

「うん。実体験があった方がより演技の幅が広がるかと思って…悪い?」

「呆れる…まぁ、今日は一宿一飯の恩もあるし、聞かなかった事にしてあげるわよ」

「先生こそ叔父さんを裏切ってあんな男の元へ行ったのは何で?他の劇団の演技に目移りしたの?外の世界も知りたいと思ったからとか、何かあったんじゃなくて?
先生に私の事を言う資格 なんてないわよ」

「…そうかもね」

「ごめん、言い過ぎたかしら…」

「罵るのも謝るのもやめてちょうだい。本当は貴方の顔を見るのも嫌な位に、苛立っているのは私の方よ。ひどく混乱してるんだから」

「話題変えましょ。そう、さっきの質問の答えは?初めて男の人に抱かれた時、どうだった?」

「まったく…貴方ってゆう子は…そうね。ジェットコースターあるじゃない?あの急な傾斜をカタカタと乾いた金属音が鳴って登ってゆくでしょ?最初の彼が私の中に入るまではその傾斜を登っていく様な気分だった」

「ふふ、面白い。そして?彼が挿れてきたら?」

「決まってるじゃない。後はそのジェットコースターは高速で下ってゆくだけよ」

「先生!面白過ぎ!そっか、何事も『初めて』はジェットコースターだよね!」

「さ、もう10分よ。お話はおしまい。変な快楽に溺れたりしたら駄目よ。寝ましょう。明日から本番まで猛特訓よ。痣が引かなくても学校へは行くから」

「望む所。それでこそ憎き鬼監督よ。おやすみするね。あ、そうそう、一宿一飯じゃないからね。先生の落ち着く所が決まるまで監禁するから」

「何を言ってるの!寝るわよ!出ていきなさい!おやすみ!」

「おやすみなさい、先生」

〜◆〜

文化の日。市の文化顕彰記念式典当日を迎えた。市の文化センター内は、絵画、写真、書、盆栽…市民の様々な作品で溢れている。その式典の中でホールでは市内の学生達による演劇や合唱合奏などの披露も予定されている。
瞳の演出、悠里主演、渾身の「ロミジュリ」とうとう本番の日を迎えた。

結局 瞳は、現在も南雲家に居候していた。悠里に演技指導を打ち込んでもらう為という大義名分。南雲家の余りある好意に甘え、壮一郎のDVから保護を受け続けていた。同時にそれは、瞳にとっても都合の良い体裁に過ぎない。
その間、悠里の父親で南雲グループを牛耳る南雲達央とは一度も会った事がない。多角的に事業を営む彼は常に出張続き。悠里のどこか芯が強く、また陰を感じる性格は家族愛の枯渇から由来しているのではないかと分析する事もあった。元より、どうでも良い事ではあったのだが。
壮一郎はもうどうでも良かった。荒木へ繋がる道を探し続けていた事は自分でわかっている。しかし奇妙な共同生活をしている中で、悠里とマリの親子はけして瞳に荒木の近況を聞かせる事はなかった。

現代版「ロミオとジュリエット」は、衣装面において低予算で済む事が演劇部にとっても助かっていた。ほぼ現代の若者の恋愛を等身大で演じる作品である。衣装は私服でも遜色なく通せる。身分の違いを越えた愛とはいえ、主役・樹里を演じる悠里のセレブな衣装も地の生活そのままでいける。
楽屋で準備している部員達も、開演時間が近づくにつれ高揚感を増していた。その光景を眺めながら、瞳はいつしか自分の持つ穿った感情が心の中から消えている事に気付く。幾つものプリズムに屈折した光線が、真っ直ぐ素直に、貫く様に。
当然瞳自身、そう感じている理由にも認識している。
愛弟子達の晴れの舞台に対する希望や期待だとか、過ごしてきた時間の集大成たる万感の思いであるとか、そういう類いだけではない。むしろその部分は小さい。
悠里やマリから連絡を聞いた荒木が、会場のどこかにヒッソリと足を運んでいるかもしれない。もしかしたら荒木が舞台裏に激励と祝福に現れるかもしれない。勘が鋭く働く悠里には見抜かれぬ様に振る舞っていたが、所詮それが本心だ。心はざわついている。

開演時間が近づいてきた頃だった。楽屋を出た若き役者達が舞台裏に向かう。廊下で瞳は一人一人に声をかけ続けた。主役露実役の男子生徒には
「いい?貴方は普段通りに、激情狂おしく演じるのよ。市民の皆さんに、今までの高校生演劇で最高の作品、そして最高のイケメン俳優の印象を与えてね」
とエールを送った。
そして最後に悠里が楽屋から進み出てきた。透明に澄んだ、優しくそよぐ風まで流れ出た様に感じた。
「先生」
瞳は、自信に満ちた悠里の姿に、数十分後には紛れもなく拍手と喝采に包まれるであろう予感に安堵する。
「綺麗よ」
混ざり飾りのない素直な言葉が溢れた。
「ようやくこの日を迎えたわね。やり残しのない様に。行ってらっしゃい」
「うん。私、先生を超えてくるから」
悠里はまるで緊張とも無縁な、これまでで最も輝かしい笑顔を瞳に向けた。
「10年早いわよ」
「叔父さんの演技…免許皆伝って言ったじゃん。もう今から感情は溜めて溜めて、溢れんばかり。そして今日、弟子は師匠を超えるのよ」
「早く行くわよ。みんな待ってるんだから」
悠里は笑みを浮かべたまま頷き、右手を差し伸べた。握手を交わそうという意思表示だった。不思議だった。青春の青々としたすべての行為を嫌ってきた瞳も、同じ気持ちでいた。
力強く握り合う掌。瞳は悠里の指の細さ、しなやかさに触れ、つい声をかけた。
「がんばれ。あの頃の私」

〜◆〜

幕が上がり、物語が始まる。
高校生の演劇部が演じる芝居は例年、来年のコンクールの行方を占う前哨戦として、市内の関係者の注目を浴びていた。暗いホール内、ほぼ満員である客席を瞳の眼差しには羨望と懐かしさも隠せなかった。
「おぉ、露実。何故にあなたは露実なの…」
スポットライトから放たれる一筋の光のトンネル。悠里の台詞はよく通っていた。瞳は舞台の袖から固唾を呑み、見守っていた。他の演者の生徒達は反対側の袖口で待機している。
「荒木先生…始まったよ」瞳は胸の中で祈る様に語りかける。瞳へ近寄る男の気配にも気付かずに。背後からいきなり首に腕を回され引き寄せられる。逆らえない重力の歪みに気が動転するも、悲鳴をあげる事だけはどうにか堪えた。
男の顔は見えなくても、それが誰なのかはすぐに理解できる。全身が恐怖で粟だった。
「よぉ、瞳先生…俺にゃ随分酷い事してくれといて、自分は生徒の芝居のギャラリーかよ…」
身動きが取れなかった。
「お前…いつ俺と別れたんだよぉ…マンションの管理人に、お前が退去の届けを出したから、すぐ出てゆく様に言われたんだぜ?あんまりじゃねーかよ」
「ちょ…ちょっと…離して。離しなさいよ。今、あんたと揉めてる場合じゃないの、わかるでしょ?」
「やっと見つけたんだ。離すもんかよ。学校へ行っても取り次いでくれねーしさ…ずっと探してたんだぜ。教え子の芝居をブチ壊されたくなければ言う事聞けよ」
舞台の上では露実と樹里が逃亡を大人達に阻止される場面が進行している。騒ぎを起こす訳にはいかない。こうなると瞳は、いつもの自責の念に支配された。自分の選んだ道だ。荒木の元を去った報いだ。そう、結局はこの男の闇へ戻るのだ。
「お願い。もう逃げないから場所を変えて。言う事聞くから…」
「よしよし、よくわかってんじゃねーか」
壮一郎は羽交締めは解いたが、瞳の右腕を力強く掴み、無理矢理引き連れて蟹歩きに移動を始めた。
そこへ通路の角の陰から長身の男が現れた。暗がりの中でダークスーツを着こなしているのがわかる。顔つきはよく見えはしなかったが、引き締まった輪郭に端整な顔立ちである事が伺える。男の鋭い眼光だけが白く光っていた。
「先生をどこへ連れてゆく気だ?」
深い地底から声が低く響いた様だった。
「誰だ?テメェは?」
「まったく…口の聞き方も知らないのか?君は。女性に暴力は良くない。離すんだ」
男は余裕という赤マントを纏い、闘牛士の様に壮一郎の威嚇を受け流す。
「これは俺とこいつの問題なんすよ。関係ない人は引っ込んでてくれないかなぁ〜」
「そういう訳にはいかない。私は南雲達央と言う者だ。彼女はうちの娘が信頼してる大事な先生であり、私の大事なお客様でもある。何より女性に乱暴を振るう輩を黙って見過ごす事が出来ないタチでね」
悠里の父親!瞳は驚きで目を見開いた。
「客〜?客ってどういう事だよ?あ?瞳、お前も答えろよ」
「マンションの契約をしてる不動産会社の社長さんよ」
「先生は君の事を同居者届けを出してはいない。契約を結んでいるのはあくまで武沢先生だけだ。先生の契約が切れてもあそこに居座りたいと言うのであれば、君の名義で再契約を結んで頂こう。勿論、敷金等は通常通りに頂く事になるがね」
壮一郎は重ねられる正論と屈辱感から何も言い返せずに黙り込み、ただ野犬の様に南雲を睨み続けている。
「さ。その手を離すんだ。でなければ君が後悔するぞ」
「ほぉ〜う…どう後悔するってんだ?見せてもらおうじゃんか!」
壮一郎は言いながら瞳の腕をつかむ手を離し、そのまま南雲に殴りかかった。言葉で自分の願望を届けられない時、暴力で意思表示しようとする幼さは瞳に示す時と同じだった。瞳は両腕を抱えて、肩をビクリとすくめる。目を閉じた直後にパチーンと音が響いた。馬鹿、この男はなんて馬鹿なの?とゆっくり瞼を開けば、壮一郎の拳は南雲の片手にキャッチされている。
「くっ…」
壮一郎は舌打ちしながら、押しても引いても離れぬ南雲の握力からの拳の逃げ道を探っていた。
「俺は瞳を離しただろ!離せよ!訴えるぞ!」
「君は何か勘違いしていないかい?マンションの住所で住民票も移動しているかい?
マンションの件にしても、今君から殴りかかってきた事にしても、そして女性の顔に何日も消えない様な痣を残す事にしてもだ。何一つ正当性は感じられないんだが…」
南雲の背後に駆け寄ってくる二人の人影が見えた。
「社長!」
呼んだのはあの運転手の長谷川だった。もう一人は警備員である。壮一郎は観念した様だった。
「南雲社長、誠に申し訳ございませんでした。関係者以外立入禁止の所、顧問の先生に呼ばれてると言い張る物ですから…」
警備員が弁解した。
「とにかく大事になる前で良かった。長谷川さん、後は頼んだよ。さ、先生。ウチの娘の芝居を見届けに行きましょう」
瞳はあまりの出来事に呆気に取られていたが、そうだ、芝居は続いているんだと我に返った。だが、まだその場に呆然と立ち尽くしている。
壮一郎は何か泣き言を吠えながら警備員と長谷川に連れ去られて行った。その後ろ姿を見送りながら、これが壮一郎との終焉となるんだろうなと感じている。南雲はただ黙って瞳が歩き出すのを待っていた。
「さよなら。あの頃の私」

〜◆〜

「先生、本当に何と御礼を申し上げれば良いか。娘をここまで熱心に指導してくれて」
舞台の袖で意外な男と一緒に演劇を観る事となり、瞳は居場所に困っていた。
彼はそう言葉を発しながらも、視線は悠里に釘付けである。
「御礼を申し上げるのはこちらの方です。何から何までお世話になり、そしてつい今程まで…
それに私の指導なんて…嫉妬と嫌悪の塊でした。彼女があの場所に居てスポットを浴びているのも、彼女自身の努力と才能です」
悠里の演技は本当に素晴らしかった。完璧だと思った。
演技の評価など、記録を競うスポーツやどちらが強いかを争う格闘技とも、美しさを比べる演技種目や芸術などともまるで違う。役の人間の感情が観客にどれだけダイレクトに引き込ませるかで分かれる。そして録画した動画を後で見る事も出来るが、基本的にはその時その時のタイムリーな演技にこそ真実があると信じている。その時に何の先入観も持たずに役の人生に入り込ませるか。人の心、魂までをも震え上がらせるか。

最前列にはマリの姿も確認できた。
「あの…いいんですか?奥様の隣へ行かなくても?」
「ありがとう。今日は私は完全に黒子なもんで。ここで観ていたいんです」
南雲はその場に足を固めてしまったかの様に直立し続けていた。
「私は彼女のこの舞台に対する情熱を、自らの持つ力をすべて注ぎ込んででもバックアップすると決めていました。先生の演出がその必要条件の一つだったのです。私にとっては当然の事だったのです。親馬鹿と言われようとね」
南雲は囁く様に言った。それでも舞台の上の悠里から目を離そうとしない。
「マリさんも同じ様な事をおっしゃってましたね。これで来年のコンクールの主役も演じるのはほぼ決まりだと思いますよ。彼女は先天性の何かを持ってます。
でも、私にはわからなかった事がある。荒木先生の作品への思い入れ…そして以前の私の舞台に焦がれてくれたという経緯は聞きました。それにしても、特に上のコンクールに繋がる訳でもないこんな一つの市の文化記念式典に彼女が固執していたのかと。
いえ、けしてこの式典の舞台を馬鹿にしている訳ではありません。彼女のこれからのキャリアを思えば一つの通過点に過ぎないだろうと思うこの舞台を、彼女はまるで集大成の様に取り組んでいた。そう、鬼気迫るとでも言うか…」
南雲は悠里の演技を見つめたまま黙っている。瞳は思いを口にした事を後悔した。そうだ、きっと南雲は忙しい合間を縫って今日のこの舞台を観る時間を捻出したに違いない。
集中したいのだ。そう考えを改めて「すみません、観劇の邪魔をして」と一言呟いた。

物語は身分を越えた男女の、許されぬ悲恋の国内現代版である。シェークスピアの原作に忠実な部分もあれば、今風にアレンジした部分もある。
ストーリーは佳境に差し掛かる。主役には当然男側もいるのだが、悠里の演技は物語が進むに連れ、次第にその「鬼気」が研ぎ澄まされてゆく。今、世間で持て囃されている10代女優でもここまでの圧巻の演技をこなせる女優がいるであろうか。感情は自ら出すのではない。出さない様に食い止め尚、溢れてこぼれ落ちるのだ。沈黙の「間」も絶妙にこなし、悠里のそれは見事に体現されていた。
南雲はポツリと言った。
「あの子は…義弟の演出に魅かれたのではない。先生、あくまで貴方だった。彼女のこの物語に対する熱の入れようは…貴方の為だったのかもしれない」

「え…?」

場面は二人の男女の悲しい結末に至った。
樹里は父親の息がかかる病院で、自分の言う事をきく医師にニセの死亡診断書を書かせる。この世にいない者としてしまえば、露実と誰も自分達を知る者のいない世界へ逃避行出来る。
それを知らない露実は樹里が死んだと思い込み、院内の劇薬を盗み出し飲み込む。
苦しみもがく露実の前に樹里が駆けつける。樹里の腕に抱かれ、樹里が生きている事を驚いて見上げ露実は、何かを語りかけようとして虚空を睨んで息絶えた。
院内が騒ぎ出す。
樹里は悲しみのあまり、涙を流したくても流せない。悲しみが押し寄せた。悲しみが溜まり出した。台詞はない。騒ぐ看護士や医師達を後に振り返り、人知れず屋上へ上ってゆく。
心の器の中には悲しみが溢れているのがわかる。表面張力で膨らんだ液体の様に。
病院の屋上から飛び降りる演技。まるでそこが本当に屋上の様に思え、瞳にも南雲にも、悠里は底の見えない奈落へ身投げしたかの様に思えた。
溢れこぼれた悲しみは、肉体をこの世に残す意味はないという答えを出したのである。

幕が降り、呆然とする時間がホール全体を包んでいた。
やがてスコールの様な拍手喝采が湧き上がっていた。

〜④へ続く〜










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文霊 〜フミダマ〜

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