Short Story【やまね雨】②

◆◆  本章  ①  ◆◆

母の部屋の扉をノックした。

「お母さん、いい?入るよ?」

「はいよ」

返事を確認すると同時に私は扉を開けた。気が早っていた。
母はパソコンのディスプレイを睨んで、キーボードを打っていた。
母は経営の現役を十五年前まで続けていたけど、そのどこかで自分でエクセルやワードの使い方を覚えハマっていた。特に数値管理は大好きだった。根っから経営を趣味とした男も負けるよな女性(ひと)だった。
使えるアプリケーションはそう多くはないはず。永介からYouTubeの操作を聞き、昔好きだった時代劇や明石家さんまの番組を観て過ごしもする。
それにしても歳(よわい)八十五にしてここまで使いこなすのは本当に関心する。

「今日は何をやってるの?」

「ん〜…何でもいいでしょ、はい、ポン!」

母はそう言いながら、韻を踏んでリターンキーを押した。椅子を回転させて私を向く。顎を引いて老眼鏡の隙間から上目使いに見つめる仕草は、いつもの事だけど少しだけイラッとする。でも今日は口角を緩めて感情を抑えた。

いつもは私も入口で「お母さん、食事よ」と知らせる程度だったけど、今日は久しぶりに部屋の中まで足を踏み入れた。
素直な気持ちになって、晩年の母は一体何を打ち込んでいるのか、知ってもいいだろうと考えている。
そう、不条理な死は誰にもいつ訪れるかわからないのだから。
私も五十路を越えて独り身、そんな娘と高齢の母親。さすがにいつも一緒にいると衝突もしばしばだけど、思えばこの年齢まで介護の手もかからない程に元気でいてくれる事は感謝すべき事かもしれない。

ディスプレイを覗き込んだ。母は腕で「見ないでよ」と塞いだけど、すべて覆い隠せる筈もない。
隙間から見えたその色彩は明らかにブログのトップページだ。
「あ。いいじゃない。見せてよ」
私は母のその手を解いて画面を剥き出しにした。

【やまね雨】

タイトルはそう書いてある。私は心の底から驚いた。
「お母さん、ブログやってるの?ってゆーか、ブログなんて使えたの?」

「あ〜あ、あんたに見られちゃった。そうよ、悪い?」

「悪くはないけど…ちょっと驚いただけ。お母さんはせいぜいメールにワードやエクセル、それとYouTubeくらいしか使えないだろうと思ってたから…
それより、何よ、そのタイトル」

「あ…これね。『やまねぇ雨』って打ちたかったんだけど、その小さな『ぇ』の打ち方がわからなくてね」

そこで私も「やまない雨」の意味と知る。その表現が何故「やまない」ではなく「やまねぇ」と男勝りな表現なのか疑問も生じたけど、とりあえず「L」と「E」で小さくな「ぇ」と打つのだと教えてやった。

「あら、本当だ、もっと早く教われば良かったねぇ。でもね、私達の子供の頃の鈍りでは、『やまねぇ』じゃなくて『やまね』の方が合ってた気がしてね。このままにしとくの」

子供時代の鈍り…それは母だけでなく、亡くなったみえちゃんも利夫伯父さんも、そして謎の「ひろちゃん」もそうだったのだろうか?どこの地方の鈍りなのだろう。イントネーションはどんな感じなのだろう。
私は中身を読ませてくれとせがんだ。もしかするとその過去の事も書いてあるかもしれなかった。母はまだ加筆添削を繰り返しており、恥ずかしいから嫌だ嫌だと子供の様に拒んだ。
そして話題を変えられた。

「それより何だい、用事は?無いなら邪魔しないどくれよ」

「あぁ、そうそう。永介とね、今リビングでお茶してたんだけど、お母さんのね、話を聞きたいんだって。なんでも雑誌の記事を書くに当たってのね」

「私の?あの子が?何だろね。新型コロナの件で高齢者の声を聞くとでも言うのかい?」

「違うわよ。お母さんが最近珍しく外出もしないでいてさ、ウィルスなんてもらってない事は信じてるわよ。なんでも東京オリンピックの事だって」

「東京オリンピック?以前のかい?やれやれ…孫の頼みともなると断れないね〜」

母はそう言って立ち上がり、一緒にリビングへ向かった。私は心の中で「やまね雨…後で検索してやろう」と思っていた事は言うまでもない。

〜◆〜

リビングに二人で入ると、永介は湯を沸かし日本茶を用意していた。

「ばぁちゃんはコーヒーよりコッチの方がいいでしょ?」

「おぉ、永介。気が利くねぇ。ありがとさん」

永介が急須で湯呑みに茶を注ぐ仕草も、慣れた物だと関心した。母もソファに深く腰をかけた。

「こうして三世代全員揃うのって…珍しくない?これもStay Homeならではの事だよね。まぁもっとも…地方と違ってこの辺りでは三世代で住んでる家自体が超レアだろけど」

永介がおどける様に言った。

「何だい?三世代で住むのをスターホームって言うのかい?」

母の質問に、私と永介は大ウケした。こんな団欒も何年ぶりだろうか。

「違うよ、ばぁちゃん。ステイホーム!耳、遠くなってきたかな?『自宅に居て』って意味さ。ニュースでやってるよ。この非常事態宣言を受けて、都知事が言ってるのがね」

「あぁ、ステイホームか。最近、Facebookでプロフィール画像にその文字付けてる人、よく見かけるねぇ」

私が驚くのはこれで二度目だ。母はブログだけでなくSNSもやっている?いつの間に?

「お母さん、Facebookもやってるの?やり方わかるの?」

いささか焦燥気味に尋ねた。それについて答えたのは永介だった。母はお茶を啜り出していた。

「母さん、俺がばぁちゃんに教えたんだ。あまり複雑な機能は教えてないけど、凄いよ。ばぁちゃんは普通に問題なく使いこなしてる。まだまだ長生きするよ!」

湯呑みを茶托に置き、母は鼻唄まじりで歌った。

「♪コンピューターおばあちゃん…コンピューターおばあちゃん」

一九八〇年代にNHKで流れていた曲のフレーズだった。私の脳裏にも当時の事がマザマザと蘇ってくる。
やはり老いても母は母だ。私も知らない所でも好奇心に向かって挑む姿勢は、微塵も変わっていなかったんだ。
というか…私だけが母の事を何もわかっていない様で、情けなく思えてならなかった。永介の方がよほど母と触れ合っていたのか。

「ビックリした。なんか…私ばかりお母さんの事、わかってない様で…ごめんね。永介がそんなに色々とおばぁちゃんをサポートしてくれてたなんて事も…」

「いいんだよ、美樹。お前は今までも仕事の帰りも遅かったし、サービス業だからね。土日も休みなく頑張ってたじゃないか。仕方ないんだよ。それに永介がおばあちゃん思いの優しい孫で助かったよ。この老いぼれも、人生最後の総仕上げを楽しく進められる」

「何、馬鹿な事言ってるの、ばぁちゃん。さっきも言ったけど、ばぁちゃんは間違いなく長生きするよ。ブログもSNSもYouTubeも、自由自在のスーパーばぁちゃんだ」

祖母と孫の微笑ましい絆紡ぎは続いている。私一人が取り残された感もあったけど、母がそう言ってくれた事で少しは救われた気持ちになった。

「それにしても…あんたら現役も大変だねぇ。この状態はね、相当にまずいねぇ…」

母は徐に情勢を憂う話をし始めた。一度、白内障を患ったその眼球は昔ほどの輝きを保ってはいなかった。
でも覚えている。ビジネスをしている時の母の目は、いつも好奇心剥き出しのワクワクな輝きと、獲物を狙う野獣のハントする時の様な力ある輝きが共存していた。

「何だい?ばあちゃん。やはり隠居しても経営者OBとして、今の世の中に何か言いたい事はあるかい?」

「言いたい事と言ってもね…こればかりは誰にも不可抗力だよ。どうしようもないね。どうしようもないけど…世界は変わってしまうんだろね。まぁ、その頃には私は生きてるかどうか怪しいもんだけどね」

「ははは!また始まった!母さん!母さんも何か言ってやりなよ!ばぁちゃんは絶対に長生きする!」

二人の会話を黙って見ていたけど、永介の急な無茶振りで言葉に詰まる自分がいた。
不条理な死は、いつ誰に降ってくるかはわからない。そしておそらく母にも残された時間は少ない。だから今の内に語り継ぐべき事は聞き出そう…その考えで母をリビングへ連れ出してきたのに、「母は絶対に長生きする!」相反した矛盾の交錯が滑稽だった。
私は母に短く尋ねた。

「お母さんの目からして、例えばどんな風にまずいと思うの?」

「まず、永介みたいに多くの会社が自宅勤務なんだろ?満員電車通勤のストレスから解放された人たちはコロナが落ち着いても元には戻れないよ。会社も交通費支給はしなくて済むだろ?
オフィス街ではOLさんのランチをあてにしてる飲食は潰れるだろし、大体スーツとか着て通勤してた人達はもう何着もスーツが要らんだろ。
終いにゃオフィスも要らんのじゃないか?会議もzoomでいいんじゃないか?となる。不動産屋さんも困るだろな」

あり得そうな話に私と永介は舌を巻いた。永介は興奮してスマホを取り出した。

「凄い!ばぁちゃん!さすが元バリバリ経営者!なんか予言者みたい!的確だよ!ちょっとさ…実は俺、記事書きしなきゃならなくてさ…それでばぁちゃんの話も聞きたかったんだけど…」

永介は話しながら、スマホのレコーダーアプリを操作していた。

「ところで本題は…何か、東京オリンピックの事だって?永介。」

「あ、うん!もう何でもいいよ!ばぁちゃんの話、何でも聞きたい!ここからは録音させてね!続きをどうぞ!ばぁちゃん!」

そう言って永介は録音を開始したスマホを、三人が取り囲むテーブルの上に置いた。

「ん…どこからだっけ?」

「だから、テレワークで世の中変わるって話!」

永介はもう待ち切れないという態度が見え見えだった。この子はこういうジャーナリズムが天職に思え、母親として嬉しさも感じながら。
同時に、母の話を色々と聴きたい気持ちは私も同じだった。

「そうだったね。多分ね、これからはコロナが落ち着いても、仕事探しする時にね、テレワーク出来る事というのが一つのステータスを上げるだろ。
いい事ばかりでもないぞ、永介。かえってこのテレワークで、また以前みたいな完全成果主義に戻るかもしれないしね。対応出来ない人、自己管理出来ない人、リストラ基準になるかもだぞい。
あ、つい、評論ぶって言ってしまったわい。永介、そこんとこカット出来るか」

笑いを誘う絶妙さも相変わらずだった。ところどころに調子乗りが入り出すと、それは母もエスカレートしてきているという、わかりやすい基準になる。

「いいよ。ばぁちゃん!普段のままでいいから、続けて!」

「そうかねぇ。録られてると思うと緊張するねぇ。まぁ、敢えて言うなら地方からな…わざわざ仕事するのに東京でなくても…という雰囲気も定着するかもだぞ。その前から「地方創生」と言って政府も地方も頑張ってただろ。これが追い風になるかもだな」

鋭い話の中にも、どんどん素が出てくる母が愛おしく思えてきた。私も続けて尋ねてみた。

「お母さん、私のアパレルは?」

「アパレルか…きついな。そういえば去年までテレビで見てたよ。渋谷に新しく出来たデパートやあの高層の商業ビル。
今、こんな状況になってしまって、まずは飲食やアパレルが一番キツいんじゃないのかい?雇用調整にはすぐ手を打ったろうけどねぇ、経営者が頭を抱えるのは人件費の他には「地代・家賃」よ。
地主や大家は下げてくれたり延ばしたりしてくれるのかい?下げも延ばしもせんと、借り手が撤退なんぞしたとこで、新しい借り手は多分見つかりにくいね。
それになぁ…アパレル自体、コロナの前からきつい事は現場にいるお前の方がよくわかってたんじゃないのかい?」

「図星ね…」

私はそう答えるのが精一杯だった。
外資系のファストファッション大手が、日本市場から撤退したニュースも記憶にまだ新しい。EC事業もありふれている今日、私達は新しい方向性を模索している所への、このコロナ・ショックだった。

「凄いよ、ばぁちゃん!その歳で一体どんだけ経済ニュースとか見てんのさ!本当に唸らされるね、母さん!」

「おだてるのはやめとくれ。私にゃ会社を切り盛りする事しか取り柄が無かったんだよ。時代の変化ってのには敏感になっちまう、半分病気だったんじゃないかな」

そう言って母は微笑むが、その言葉には私も思わず反感を抱いた。バブルの頃の苦い記憶を浮かべながら。

「そうは言うけどお母さん。随分と他人の若者にも出資して応援してたりもしたじゃない。大変な思いをしてたのも覚えてるでしょ?
あれは取り柄ではないなら何なの?会社の切り盛りとは別だった様に思うけど?まさか道楽?」

母は暫く沈黙し、永介も場の空気を感じて成り行きを見守った。私は少しキツい言い方をしたかと判断し、フォローの言葉で追いかけた。まだまだ聞きたい話があるのに、これで終わられたら次の機会はないかもしれない。

「キツく聞こえたらごめん。けして責めてる訳じゃないの。お母さんの胸にある事を私達に聞かせて」

「いやいや…お前の言う事ももっとも。今、ちょっと考え直してたのよ。私は…お父さんと作ったあの会社で働く若者も含めてね、街で私と関わる若者にもし夢があって、それをやるのに私の力が必要なら惜しみなく手助けするつもりだった。…美樹。それはたとえお前でもだったよ。

それが私の使命だった。取り柄かどうかは知らないよ。私が自分の信念でそうしてただけだから。
もちろん、出資するからにゃ口出しもさせてもらう。リスクを最小限にする為にね。だから切り盛りしてたのは自分の会社だけじゃない。彼らの会社、この街をいつも切り盛りしてる…そんなつもりだったよ」

ここまで情勢を客観的に評論していた母が、珍しく自分自身を客観視して話した。
この女性(ひと)と「母娘(おやこ)」という、おそらく世界で一番強い絆と言われる関係性の中で、私達が初めて交わす一つずつの個と個の向き合いだった。

バツ悪そうに永介が割り込んできた。

「えっと…二人ともさ、また話を本流に戻してもいいかい?
ばぁちゃん。じゃぁさ、飲食にしろ、アパレルにしろ、今もばぁちゃんが現役で、そしてその店舗の社長だったらどうする?飲食ならデリバリーやテイクアウトなんて手もあるけど…」

「私が現役ならかい?無論、勇気を持って撤退するね」

あっさりと断言で即答した。
永介は固唾を飲み、眉を寄せた。私も思わず身を乗り出す。組み合わせた手の平にはじわりと汗が滲んでいた。それは飲食業の場合か アパレルの場合か、あるいは両方ともか。
私もアパレル業に身を置く。母の答えは緊張を招いた。同じ血を持つ娘の私の未来をも占っている様に感じたからだ。

「あぁ、でもね、永介。その考えは私ならば…だよ。あくまでもね。
もちろん他の経営者の中には、この危機も乗り越える知恵と力のある人もいるんじゃないかい?
だからこんな一老人の戯言など、記事にするんじゃぁないよ」

「ばぁちゃんなら…の仮定とはいえ、それなりの理由があるんだろ?ばぁちゃんの行動力ならテイクアウトでも頑張りそうなもんだけど?」

「テイクアウトでは  ばぁちゃんだったら頑張らんよ、永介。
ばぁちゃんが食堂やるならね、店内でお客さんが美味しい美味しい、そして大切な人と楽しい楽しいって言いながら食べてるの見るのが楽しみだと思うのよ。浜茄子の花が咲き誇る浜辺で食堂でもやりたいねぇ。

提供する価格の粗利ってのは、その店内の時間空間や、自分達スタッフのサービス分の付加価値だよ。
その店内にお客さんがいないのに、同じ価格でやるならね、元々店の無いテイクアウト専門にその半額で出されて負ける。少なくとも私はね。
もちろん、知恵を絞ればそれでも勝つ道はあるだろけど、私ゃしないよ。問題は ばぁちゃんが飽きっぽい性格だというだけよ。負けてその仕事は終わり。次のやりたい事を探すさ」

私と永介はしばらく沈黙した。母の性格からそれは納得出来る答えであり、されど私達親子には納得し難い、得体の知れない後味の悪さを感じているからだ。
まるで陰と陽がせめぎ合い、均衡を保つよな静寂がリビングを包んでいる。
母がお茶を一口飲んで口を開き、再び静寂は破られた。

「もちろんやり方も幾つもあるよ。でも道の選択肢も幾つもある。それを知らない人が多過ぎるのね」

私も釣られて、堰を切ったよに声を出した。ボクシングの試合で、インターバルが終わり次のラウンドが始まったかの様に。

「お母さん、じゃその経験豊かなお母さんに聞きたいわ。実際にお母さんも、お父さんと作った自動車整備工場は最後までやめなかったでしょ?飽きっぽいなんて言うけど、その道一本を貫いたでしょう?世の中、そう簡単にその道一本でやってきた人の気持ちもわかるんじゃないの?」

「当たり前じゃない。安定してて危機はなかったもの。お父さんとの思い出も沢山詰まってるし、何より美樹、あなたを育てる為にも安定は手放せなかった。
その道一本でやってきた人を否定するつもりはまったくないわよ。だから私は、若い人達を使って他のやりたい事を叶えてきた。同時にそれは彼らが夢を叶える事にもなった。やりたい事は別にね、私がやらなくてもいいの。
私にとって大事な事は…やりたい事を持つ人が、その命をその事に正しく使い切る事よ。一番は私じゃないのよ」

私はまだ混乱している。おそらく母も、自分の話が順序立てられておらず、理路整然から離れている事は認識していたろう。
混乱し、整理する為にも母に問わずにはいられなかった。

「だから〜…それはわかるの。素晴らしい事よ。人が夢を叶えたり、それでその道一本でやってゆく事はね。でも何か私にはそう…例えばさっきのテイクアウトの話、私には否定にしか聞こえなかったんだけど」

母はすかさず返してきた。

「いい?美樹。永介。今の飲食の人達がやってるデリバリーとかテイクアウトとか…今を生き残る為に大事な事よ。今はウーバーイーツとかがあるのも永介に教えてもらった。
でもね。その道一本で頑張るにも、やりたい事を叶えるにも、私は平常時に話してきた事なのよ。
平常時の常識が全く通用しない異常時ってね、幾つかあるのよ。今はその時でしょ?『私ならやらない』というのはその前提で話してるのよ。
平常時の常識…例えば企業秘密のレシピを料理教室でも、お料理本でも、若けりゃYouTubeででも公開するよ。

私が言いたい事は、手段を目的にしないって事よ。本当の目的をみんなに忘れないで欲しいの。
それさえ忘れなければ、人は何度でも…焼け野原のゼロからでもやり直せるよ」

良い事を言おうとしてるのはわかる。それにしても具体さを欠く母の話に苛立ちがまた募り出す。
私がまた応戦しようとするのを、永介が「母さんは少し黙ってて」と遮った。

「ばぁちゃん、何?その幾つかある異常時の条件って?」

母はお茶をまた一口飲んで息を吐き、話し出した。

「まずはまさに今ね。感染症のパンデミック。こんなに世界的に大変になった事はばぁちゃんも初めての経験よ。
そして災害ね。阪神とか東日本大震災。永介にも記憶あるだろう?
それから…何かね、改革とかクーデターとか、大きく仕組みが変わった時。ばぁちゃんは子供の時にね、『デノミ』っていう物で見てきたわ。
そして…もう一つ。それが一番怖い地獄なの…」

母はまたしてもおちやお茶を口に含んだ。もったいぶらずに言って!心の中でそう叫んだ。

母の話は飛びまくり、目まぐるしく変わる。合わせて私の感情もクルクルと回転していた。
デノミ?初めて聞く言葉だし、もっと地獄の話もあると言う。
そして母がいつになく口数が多くなっている事にもこの時気付いた。つい三分前まで苛立っていた私の心は、すっかり鷲掴みされて引き込まれていく。

いつか私に、みえちゃんが言ったセリフ。

「美樹ちゃん…私達姉妹にはね、『恐怖』の感覚が欠落してるのかもしれない…怖いものがないのよ」

その母にも怖い物があるというのか。

そして謎の伯母・ひろちゃん。
これから私と永介は、その秘密を知れるのかもしれない。

永介が母の湯呑みに二杯目のお茶を注いだ。

「ありがとう」

「うん、それよりばぁちゃん、その地獄ってゆーのは?」

「そうよ、お母さん。もったいぶらないで」

永介が続きを急かしてくれたお陰で私も便乗した。
だけどその時、母の顔を注意深く観察して気付いた事がある。
認知症の傾向一つも見せず元気とはいえ、八十五歳。顔もそれなりに年輪の様な皺に覆われている。それでもその表情が悲しみに満ちていた事がこの時わかった。余程、エネルギーを消費しながら話していたのだろう。

「美樹。永介。一番怖い、地獄の『異常時』それはね、何と言っても『戦争』だよ」

〜本章 ②へ続く〜

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文霊 〜フミダマ〜

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