かかってきた突然の電話の主が、地元財界の大物・川島グループ会長、川島悟と聴いて瑠美は緊張を走らせていた。
こんな朝の早い時間から、思いもかけぬ相手からの連絡に、何事だろうと戸惑いに包まれた。
まだ自分も到着する前の会社に電話が社長宛にかかってきて、取り次いだ社員がまだ出勤前である事を伝えると、折り返すよう個人の携帯番号を伝えてきたと言う。
表向きは市内で新車・中古車の販売や損保代理、自動車整備等を請け負う「川島モータース」社長で通っている。しかしもはやそれだけではない。その中古車販売において、インターネット上にECサイトを立ち上げるに当たりwebデザインの会社を立ち上げ、しいてはその分野において他社にコンサルティングをするまで手を広げてきた。
地元においては多角経営の成功者として、地域経済を支える顔役の一角として名を轟かせている。
瑠美の番号を押す指が慎重だった。粗相出来ぬ相手である。だが、それだけではなかった。
自分が社長就任を強行してまだ間もなく、夫・佑志とその不倫相手の坂上麻友子を追い詰めているこのタイミングである。不自然さの勘が鋭く働いていた。大物と近づけ、もしかすると自社にとって都合の良いビジネスが飛び込むかもと、手放しでは喜んではいない。警戒のアンテナを張っていた。
電話の呼び出し音が鳴った。
「はい、川島です」
「川崎電設の川崎です。会社にお電話頂きましたようで、恐れ入ります。川島社長さんとはお初になると思いますが…光栄でございます」
「おぉ、貴方が川崎電設さんの新しい社長さんですね。初めまして。今日は老いぼれの突然の無茶な申し出にお応え頂き、こちらこそありがとうございます」
「いえいえ、そんな事はございません。私の様なヒヨコに社長自らお電話を頂けるなんて、夢にも思っていませんでしたから」
「なるほど。お噂通り、聡明で賢そうな社長さんです。将来の御社のご繁栄も保証され、先代の会長さんもさぞやご安泰ですな」
世辞のラリーが続く。世間では人格者と評判も高いだけあり、礼儀正しくけして威圧も感じさせない。
しかし瑠美は油断は見せず、川島とも駆け引きの交錯である事は読み合っている。
「そんな事ございません。まだつい昨日、就任したばかりの駆け出しのヒヨコです。流石にお上手ですね。
ところで川島社長、本日は私などにどの様な御用でしたか?折り返しのお電話をさせて頂く程だなんて、青天の霹靂で何のお話かとドキドキしております」
川島は白々しく、「そうでした、そうでした」と高い声を張った。その声はまさに怪老人の様だった。
「新進気鋭の社長さんの、貴重なお時間をこれ以上奪う訳にはいきませんな」
朗らかにそう告げた後、ふた呼吸程の間の後に、打って変わる低い声でボソリと言った。
「坂上の件です」
瑠美の予感は当たったが、川島の態度の急変に底知れなさを感じた。
しかし、瑠美もたじろぐ訳にはいかなかった。
ふと父親が現役時代に、銀行員と貸し渋り、貸し剥がしの交渉をしていた場面を思い出す。当時、瑠美は経理責任者としてそんな場面に立ち会っていた。
あんな場所に居合わせた経験が糧となった事を父親に感謝しつつ、私をその辺の小娘と一緒にするな、心の中でそう呟いた。
「まさか川島社長のお耳に入っていたとはお恥ずかしい限りです。川島社長がどの様な経緯で坂上さんとお繋がりかは存じ上げませんが、あくまでも私的な事でして、申し訳ございませんが第三者である川島社長が関わる事ではない様に考えておりますが?」
「実に仰る通りですな。ところが坂上とは昔から私も盟友でして、川崎社長さんとの示談の仲介を頼まれた次第です。
困ったのは私の方ですよ。私としてはまったくの利にもならぬ余計なお節介だ。坂上の娘の事は私もよくは知りません。それに、これから経営者として越えてはならぬ道徳を犯した。然るべき罰を坂上も受けるべきです」
川島は淀んだ声のまま、流暢に話した。電話なので表情は見えないが、数々の駆け引きの場数を踏んで来たであろう雰囲気に、瑠美も不気味さを感じた。
「示談?それでしたら尚の事、私と坂上さんとで進めますよ。川島社長も他人の家族の痴話話に首を突っ込むのは時間の浪費ではないでしょうか?」
「ふふ、さすがに痛い所を突かれる。新しい社長さんは弁も達者だし、なかなかやり手ですな。それは私本人が一番思う所でありますよ。他人のスキャンダルなど正直、首を突っ込んでいる程ヒマではありません。ただ、いかんせん、坂上には断り切れない義理がありましてね。
義理はあるが、貴方のお怒りの気持ちの方がよくわかる。私は貴方を救いたいんだ」
瑠美は虚を突かれた。
「どうか老人への親切と思って話を聞いてやってもらえませんか」
何かある…これは間違いなく坂上サイドの差金だ。鵜呑みにして、川島がスムースに味方になるとは思えない。瑠美は川島の腹を洞察を試みながらも、川島と繋がっておく事、この話を聞く事にメリットはあるかどうか計算していた。
「具体的にはどうしろと仰いたいのですか?」
「その前に失礼ですが、立ち入った事をお聞きしたい。貴方はこの件は離婚はせず示談を望んでらっしゃるのですか?それとも離婚を前提に調停や裁判へと持ち込むつもりですか?
勿論お答えになりたくなければ答えなくて結構ですし、けして他言は致しません」
先日も瑠美は夫・佑志に「離婚はゆくゆく考える」と答えた事を思い出す。
だが実際にその点は瑠美は、子供達の事、そしてスキャンダル情報が会社に与える影響を鑑みて、現時点で離婚は考えていない。ただ「最後の切り札」として取っておく覚悟はあった。
そして今はその手の内を、赤の他人に知らせる訳にはいかない。
「それについてはお答えしかねます。川島社長が坂上さんとどの様な関係にあるかはわかりませんが、何故そこまで坂上さんへ肩入れするのか、いささか疑問に感じています。
川島社長のお考えをお聞かせ願いたいです。一体どうされたいのですか?」
「そうですね。大変失礼しました。本題に移りましょう。貴方がこの先、どういうおつもりでいらっしゃるにせよ一度、坂上側の当事者と、向こうの代表であり父親でもある坂上達郎を交えて話し合いませんか?そこに私も同席します。
貴方はご主人や弁護士さんを連れてきても、お一人で来ても構いません。
ただこれだけはわかって欲しい。私も仲裁をしようと考えている訳ではありません。
勿論、弁護士さんと相談されてからでも構いはしませんが…当事者も犯した罪の償いは受けて然るべきかと思っております」
川島の言葉には毅然とした正義の重みは感じる。地元でも信頼足る人物だと評される事は理解出来る。反面、駆け引きに長けた人物だという感も拭えず、警戒は解いていない。
「その話し合いとはいつですか?」
「早速急な話で申し訳ないのですが、今日の夕方です。スケジュールは立て込んでますか?」
〜◆〜
「そりゃ、離婚してもしなくても相手のパートナーは君に慰謝料の請求は出来るさ」
スマホ越しに大学時代の同級生で弁護士の樋口はあっさりと言い放った。
「やっぱり?」
「ああ、やっぱりだ。しかし…久しぶりの会話が不倫の相談とは…。坂上も大人の女性になったもんだな。相手はどうゆうつもりかはまだわからないのか?」
「茶化さないで。まだそれはわからないし、深刻に悩んでるのよ。仕事への影響もそうだし…」
「そうだな。それが厄介だな…いずれにせよ、その状況だと君が圧倒的に不利だぞ。相手の出方次第だけどな」
「うん、もう観念してるわ…と、言いたい所なんだけど」
「なんだけど?」
「やはりね、いざこうなると怖いものだらけよ。金銭面は幾らなのかって事もあるけど、父にも知られたからには、私の立場は?将来は?相手はどうなってくの?あれこれ考えちゃうの」
樋口は気心の知れた異性の親友の一人だ。お互いに恋愛対象を意識する事もなく、開放的な話題を話し合える。数年ぶりの会話も流れた時間を感じさせずに、大学時代に引き戻すよな錯覚が包んだ。
そう、時間を戻せたらどれ程良いか。
「気持ちはわかるよ。僕は離婚問題は専門分野外だけど、少なからず僕のクライアントでも男女問題に悩んだ人達は見てきた。
そういう場合の慰謝料の相場はね…」
と、樋口が言いかけた所で、加藤がオフィスに戻ってきた。
もうすぐ業務時間は終了する。加藤が席を外している隙に麻友子も旧友に電話をかけていた。
「申し訳ございません。その件はまた後日、詳細の資料を準備してお届けしたいと思います。一週間ほどお時間を頂けますか?」
これ以上、電話をしている事が難しくなったと察した樋口はすかさず反応してくれた。
「わかった。いよいよ修羅場だな。力になれる事は少ないが、何かあればまた連絡を待ってるよ」
「ありがとうございます。またご連絡させて頂きます。失礼します」
落ち着き払った所作で電話を切る麻友子を見て、加藤が声をかけてきた。
「お客様ですか?資料請求なら横沢さんとこでもいいのに」
この男の鋭さはいちいち何なのだろう。野生の勘が働くのかと思えば、時に無邪気な少年の様にふざける。その落差感がまた麻友子を緊張させた。
「コンサルティング協会の会員誌の取材依頼みたい。寄稿も頼まれたけどこの通り立て込んでるじゃない?だから向こうで書いてもらうけど、そのプロフィール掲載のウチの事務所の歴史や実績を欲しいんだってさ」
こんな些細な事も含め、我ながらどんどん嘘が上手くなってゆくものだ。麻友子はそんな事を考え、そして「辛い」と思った。
「まずは今月を乗り切る事を優先させましょう。どうですか?社長の今日の作業は捗りましたか?」
「ぼちぼちね」
「今日はこれから、前社長と川島社長と会合でしょ?社長はもう出かける準備されていいですよ。後は僕が残業で少しずつ進めておきますから、直帰されていいですから」
「あら、加藤くん、どういう風の吹き回しかしら。ありがたいわ。本当にそう、今月を乗り切る事を優先させましょう。でも今日は言葉に甘えるわ。
私も実は川島社長にお会いするの初めてで。どうご挨拶すればいいのか頭が一杯だったのよ」
実際、そうだった。
地元の経営者団体でも川島社長が直接出席する事も少なく、父・達郎がどの様な経緯で懇意に付き合っているかも知らなかった。会計顧問も坂上会計事務所で請け負っているが、すべて達郎直通だ。
コン、コン、コン
達郎のノックが響いた。
入室してきた達郎は「お疲れ様」と二人を労った。
「加藤君、すまないがそろそろ麻友子を連れて出かけようと思うんだが、後は任せていいかい?」
「お疲れ様です。社長。ちょうど今、そう話していました。大丈夫です」
「そうか。すまんなぁ。麻友子、お前はすぐ出かけられるか?」
「え?今すぐですか?」
早いと驚いた。腕時計を覗くと16時を回ったばかりだ。
もう30分はかかるだろうと睨んでいた。それまでの間に、覚悟を決めて瑠美へ連絡しようとしていたのである。
瑠美は麻友子に、父親に相談し、誠意を見せろと言った。勿論、「誠意」には慰謝料の額面の含蓄もある。それで樋口にも相談の電話をかけていた。
「私の車で行くぞ。17時上がりの渋滞も心配だし、今日はどうしても先方を待たせる訳にはいかないからな」
「そう…後片付けはすぐ済ませますが…今日はどちらへ?それにお食事もまだ早い時間かと…」
「そういえば言ってなかったな。今日は食事ではない。先日なら昼の食事だったのにな。
今日は中央文化センターの貸会議室を取ってある。どこかの料亭とでも思ったか?」
貸会議室?麻友子を胸騒ぎが襲う。
昨夜の事は加藤の手前、達郎も何事も無かった様に自然に振る舞っている。しかしオフィスを出て達郎と親娘二人きりになってからは、どんな時間になるのかと想像しただけで体が硬くなる。
「後片付けは今日はいいだろう。明日に持ち越す物ばかりだろ?事務所前に車を停めてある。三分以内に来なさい」
三分…腕時計を再び覗く。
パテック・フィリップが「気を強く持ちなさい」と語りかけている様に思えた。
〜◆〜
助手席に麻友子を乗せた達郎のレクサスは、静かに、かつ力強く走り出した。
車内の静寂はゆっくりと、麻友子と達郎の「社長と社員の壁」を融かし、再び「親娘の時間」に変えてゆく。
「お父さん…本当にごめんなさい。事務所でも気を使わせたみたいで…」
「過ぎた事はもういい。それよりもこれからだ」
「はい…」
過ぎた事…父親の優しさの欠片を感じたのは束の間、これからだという短い言葉に覚悟の厳しさを帯びていた。
「気持ちの整理整頓は進んでいるか?」
昨夜、達郎が麻友子の部屋の去り際に残した言いつけだった。そしてそれは達郎の口癖であり、揺るぎない達郎の信念であり、生き様だった。
「モノ」の整理整頓ばかりではない。行動、考え方、何事もだ。
麻友子は小さく頷いた。
「整理整頓の定義は覚えているか?」
「うん…整理は『不要な物を捨てる』そして整頓は『誰の目にも明らかにわかりやすくする』 お父さんと言えば整理整頓と言う程よ」
「すべて捨て切れたか…?」
佑志への気持ちを指しているのだろう。麻友子は素直にそう思って答える。
「彼を…愛している訳ではなかった事はわかったわ。でも…情はある。約束します。気持ちは捨てます」
達郎はチラリと視線を流し、言った。
「私が言ってるのはその事だけじゃない」
麻友子は父親が何を言おうとしているか、瞬時に悟り言葉を失った。
やはり達郎は深い。いつでも見抜かれている様だ。
「加藤君へ嘘を重ねたり、彼を言いくるめて負担を背負わせたり。人のせいにしたりはないか?
余計な見栄やプライド、執着心はないか?」
市街地を疾走する車に、柔らかい3月の陽光が射し込んでくる。確実に日照時間は長くなり、春は近づいているんだなとボンヤリと考えた。
私は一体…この人から何を学んできたのだろう。
「今日は川島の力も借り、川崎瑠美さんも同席する。これから私達が向かう所は紛れもない戦場だ」
麻友子は達郎の顔を見た。
達郎は前方一点を集中し、黙って運転を続けた。
〜◆〜
文霊 〜フミダマ〜
言葉に言霊 文に文霊 ポエム、エッセイ、ドキュメント、ノベル… 長文に短文、そのジャンルに合わせて、 素敵な感性と叙情詩溢れる表現力を磨いて、豊かな文作能力を身に付けたい物です。 そんな表現能力向上委員会のページです。このブログは。
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