ShortStory 【夢に破れ、また溢れる時】〜瞳と悠里〜 ①

衝撃のラストシーンが近づく。

スクリーン一杯に映る、振り向く女優の顔。否。女優というのは物語から離れた時の彼女の実務的な職業の呼称。今は役が憑依した登場人物「樹里」そのものである。
樹里の凛とした端整な顔立ち。しかしその瞳は静寂と冷気を抱えた洞窟の、ぬめる岩肌を湿らせた暗闇の泉。溢れた涙は一筋の光る糸となって頬を滑り落ちた。

物語はシェークスピアの「ロミオとジュリエット」を現代の日本を舞台にアレンジした作品。とある街の小さな劇団で脚本を荒木麻梨恵、演出を荒木史康の無名の姉弟が手がけた事が細やかな話題となっていた。

その時、観客席にいた彼女にとって、この場面の『樹里』を見届ける以外には何の意味も持たなかった。台詞もいらない。彼女の感情の溢れ方を観る為だけに。
運命とは時に何と残酷に若者達を追い詰めるのだろう。観客の誰もが戦慄の瞬間に息を呑む。
しかし彼女はここで席を立った。エンドクレジットを待たずに。彼女がスクリーン前を横切り館内を去りやがて、スクリーンに映っていた筈の「樹里」も姿を消していた。
場面はビルの屋上。シネマの館内にも、ビルから舞い上がる風が強く吹き抜けた気がした。

〜◆〜

「この場面はね…感情を『出す』んじゃぁないの。自分の内に溜めるのよ」

私は今日も悠里に演技を指導している。こんな薄暗い校舎の空き部屋で、毎日毎日同じ事の繰り返し。何遍言ったかわからない。公演日までもう幾日もない。
今日も私を射抜く様な眼差しね。困惑…?違うでしょ?本当は。嫌いでしょ?私が。手に取る様にわかるのよ。目の色が嫌悪で満ちている。

辞めてもいいのよ。別に。こんな演劇部、廃部になっても構わないの、私は。
たったこれだけの部員で、どんな芝居が出来るというの。廃部になって顧問なんか辞めて、私もこんなブラックな暮らしから解放される。そんな事、体育会系の顧問の先生達には言えないけどね。
秋のコンクールで三年生が引退した途端に、仕切り出しちゃって、市の文化顕彰記念公演なんか張り切ってどうするのよ。しかもよりによって選んだ演目があのロミジュリだなんて。
まったく。何の当てつけ?

悔しかったら、私を唸らせる演技をしてみなさい。

「溜める…どういう事?わからないわ、先生。この場面は明らかに感情を出す場面よ」

相変わらず生意気ね。可愛くない子。

「何度も言ってるじゃない。感情はね、貴方から『出す』…のではないのよ。貴方はむしろ出さない様に自分の内なる場所で食い止めて。
コップの水を思い出すのよ、そこは。溜めに溜めて、やがてその水は溢れてこぼれるの。
いい?『出す』のではなくて、『出てしまう』のよ」

これ以上分かりやすい説明は他に無いでしょ?サービスよ。さぁ、貴方は次にどう出るの?

「出てしまう…ダムの決壊でしょ、ここは」

「違う。シェークスピアのロミジュリの見過ぎよ、それは。
決壊はダムを壊しての洪水よね?荒木式ロミジュリはそうじゃない。ダムを壊してはいけないの。静かに、静かに水は溢れてこぼれるのよ。」

どう?天才少女。グウのネを出してみなさい。それが彼の演出よ。
貴方にこの役は無理。己の分をわきまえなさい。
一体どういう了見で貴方がこの作品を選んだのかは知らない。この作品はかつて愛した荒木の作品。貴方みたいなただ女優に憧れてるだけの子供が演じていい作品じゃないの。背伸びするにも程があるわ。

私は彼の作品だから手は抜きたくないだけよ。
勘違いしないでね。私は貴方みたいな子供の為に演出してるんじゃないの。彼が魂を注ぎ込んだこの作品の為だけにやってるのよ。

それにしても…くどいけど今回のこの公演、貴方は何故この作品を選んだの?そしてこんなに拘っているのか、本当にミステリアス。
まぁ、貴方のお父様が地元の有力者で、鶴の一声で彼の作品がこうして世に出たのは嬉しいんだけど。たとえ高校生演劇部のレベルでもね。
それにしても…主演まで南雲悠里、何故、貴方が演るのか、ホントに気に入らない。

「先生、もう少しわかりやすく教えてくださいよ。全然意味がわからないわ」

〜◆〜

相変わらず生意気だと思ってるんでしょ?

あなたには人に教えるセンスが欠如してるんじゃないの。だからこんな高校の講師で止まってるのよ。

知ってるよ。あなたがホントは女優志望だった事。そしてあの劇団に所属してた事も。

感情は溜めて出す?
わかってるよ、その位。あなたが尊敬していた演出の荒木の教えでしょ。彼を好きだったのはあなただけじゃない。私も好きだった。そして愛されてた。

ついでにもう一つ。
学校にも秘密でしがない役者クズレと同棲してるよね。
馬鹿ね。売れる訳ないわ、あんな風に女に依存しまくってて、ろくに仕事もしやしない男。ホントに才能があると思ってるの?あんな男。
あなたには何て言って毎日を過ごしてるか知らないけど、劇団へなんてもう殆ど顔も出してないし、もちろんまともに芝居なんてしちゃいない。
知らなかったでしょ?パパの情報網で何でも筒抜けよ。

私はあなた達とは違う。
必ず女優になってやる。荒木史康の教えは私の為の物よ。別に友達なんていらない。私は本気なの。
きっとあなたは私の将来を嫉妬してるのでしょう?素直に認めたらいいのよ。
先生、あなたは抜け殻。自業自得よ。

ホントは…
私がこの学校を選んたのは、あなたとお芝居がしたかったからよ。
いつからなの?もうあなたは荒木が育てた武沢瞳ではないわ。残念ね。

とにかく、私には時間がないの。

「先生。気に入らないなら止める?今度の文化顕彰記念公演」

さぁ、ハッキリ言ったよ。あなたは次にどう出るの?
あ…溜息こぼしたね。
それでもいいのよ、私は。この作品を演じられるなら、何もこんな学校の演劇部でなくてもいいんだから。
パパがまた私の為に新しい受け皿を探してくれる。
私は市の文化顕彰記念公演に拘ってるんじゃないの。この作品で、あなたの演技を越える事に拘ってるのよ。

私には時間がないの。荒木史康が私を待ってるわ。

〜◆〜

「ただいま」
玄関の扉を開けると奥のリビングからテレビゲームのけたたましい音が響いてきた。

「おかえり」
同棲している壮一郎の声が激しい銃撃音に紛れて微かに届く。
瞳は羽織っていた薄手のコートから腕を抜く。

学生時代から同級生と距離を取った。群れの中、同じ話題、流行、感性に埋没する事を恐れ、常に孤独の中に身を置いた。
友情?夢?反吐が出る気がした。
社会に出て、子供達に教える立場ともなればそんな苦手意識も消えるだろうかなどと飛び込んだ職業だったが…違う。どうやら瞳は学生の織り成す「青春」そのものが合わないのだ。
今日も悠里達を相手に戦ってきた疲れが溜まっている。コートと共に脱ぎ捨てられる物なら脱ぎ捨てたい。しかし脱ぎ捨てたら脱ぎ捨てたで、引き換えに新たな苛立ちを着込む前兆はある。壮一郎を見下ろしそう感じながら、ただ立ち尽くしていた。

「早く飯にしようぜ。俺、腹減りまくりよ」
胡座をかいたまま床に縫い付けた様な壮一郎の置物が声を発した。
思わずリビングの床に、持っていた鞄をヒステリックに叩きつける。

「ちょっと…いい加減にしてくれる?」
驚いた壮一郎が唖然として振り向くと同時に、画面では彼の操る戦士が撃たれて息絶える。

「急になんだよ。学校で何があったか知らねーけどさ、俺に八つ当たりは筋違いじゃんか?」
壮一郎は何事もなかった様に顔をモニターへ向き戻しながら言った。コントローラのワンプッシュでゲームをリプレイする様に、瞳も気分をリセットしろよと言わんばかりに。

「あんたはそーやってふざけてばっかりじゃないの。一体あんたは  今日一日何してたの!芝居の公演、本当に近いのなら今頃稽古稽古でゲームなんてやってる場合じゃないでしょう!」
壮一郎は押し黙り、モニターへ向き直った。
「ああ…あれな。辞めたよ」
「は?」
「やってらんねーっつったのさ。誰も俺の才能を活かせやしねぇんだからさ」
再び電子的な銃撃音がリビング内に響き渡る。今度は瞳が唖然とする番だったし、しかもそれは長く続いた。時間が凍りついた様に。

「辞めたって何よ…何で公演初日まで決まってて辞められるのよ…」
「だからぁ…オッ、アブね!」
ヴァーチャル戦場では戦士が再び撃たれて血を噴いた。
「あ〜〜あ、もう辞めた辞めた!ゲームも劇団もぜ〜んぶ辞めてやるよ」
コントローラを放り投げ、壮一郎は立ち上がる。
「瞳さんはどうやらご機嫌が優れない様だ。今日は俺が何か作ってやるよ。パスタソースもあって簡単だからさ、カルボナーラでもいい?」
呆然と立ち尽くす瞳の横を通り過ぎる壮一郎。と、突然背後から瞳を抱き寄せた。
「それともお互いムシャクシャしたのを忘れ合うのが先か?」
瞳の耳元での囁きは、戦場で踏まれた地雷となって瞳の心を、ダムを壊した。
「アァァァァァ!!」
溜まった感情と止まった思考。それらは咆哮となって瞳を覆う殻を内から壊し砕いた。
持てる力の限りに壮一郎の腕を振り払う。叫んだ。悲しいまでに傍若無人の悲鳴だった。
「おいおいおい!近所迷惑だろ!静かにしろよ!」
「静かにして欲しかったら今すぐ出てって!今すぐよ!」
「何言ってるんだよ!二人の部屋だろ!?ここは!」
「いいえ!名義も家賃の支払いもみんな私!あんたは何もしてないじゃない!出てゆくならあんたの方よ!」
「おい!俺だってこれでも今日は傷ついてるんだぜ!それなのに慰めてもくれやしねーのかよ!何でお前にまで捨てられなきゃならねーんだよ!俺はそんなにダメな男か!?」
「ダメ男じゃないの!屑よ!」

暴れる瞳の両手首を掴み、抑え付けようとしている壮一郎の体が岩の様に固まった。押しても引いても、どう足掻いても動かせない巨大な岩の様に。
「なんだと…?」
いつもの険悪なムードになった時の壮一郎の低い声だ。この世界を写す鏡の向こうの、魔界から魔王が囁いたようにも聞こえる。目の奥に悲哀が見えるその一言は、瞳に恐怖を察知させる。

「なぁ、瞳…お前ならわかるだろ?俺が役者としてどんだけの才能を秘めてるか?お前だって俺の芝居を観て惹かれたって言ってくれてたじゃねーか?
な?頼むよ。見捨てるなよ、俺を。俺は必ず大きな役者として羽ばたくからよぉ…」

瞳の体内を駆け巡ったアドレナリンが、引き潮になると同時に血管の管という管を凍りつかせてゆくのがわかる。体が覚えている。このパターンは危険だという事を。
震えながらそれでも瞳の唇は勇気を絞り出した。
「む…無理よ…もう」
「…どうしても出てゆけってか…」
壮一郎の瞳孔から悲哀の影がフッと消える。しかしその眼球の奥に潜む狂気の濃い闇は、瞳の身も心も覆い尽くし室内の光を奪ってゆく。
壮一郎の右手が掴んでいた瞳の左手首を突然離したかと思った刹那、瞳の左頬に鈍く重い塊との衝突を感じた。首がまるで芯棒を軸に
回る地球儀かとさえ思えた。壮一郎が握りしめる右拳、それは瞳にとって絶望という名の塊だ。
「変な大声出してんじゃねーよ」
両手で頭を掴まれて今度は腹部に鈍痛。ムエタイ選手さながらの膝蹴り。
咳き込んだ瞳は前のめりに床に崩れ落ちた。殴られ、蹴られた自覚はあった。なのに次の瞬間にはまた天地が逆転する浮遊感を覚えた。体はまだ危険信号を解除していない。壮一郎の両腕は瞳の体を抱き上げていた。寝室のベッドへ運び、そして投げ捨てる様に放り落とされた。朝、ゴミ捨て場へ出すゴミ袋かの様に。

上半身の衣服を脱ぎながら壮一郎は跨ってきた。身をよじらせ拒否の意思を見せるも虚しく、両肩を掴まれ正対させられる。
壮一郎の手がブラウスのボタンをはずしに来る。両手で防いだ。頬に平手打ち。左、右。
また一つボタンをはずされる。防ぐ。左、右。パチッ、パチッと乾いた音が規則正しいリズムで響く。
そして唇から浸入する壮一郎の舌。しかし瞳の口内の切れた出血をひと舐めしてすぐに抜いた。

「わかってくれよ、瞳…俺がどんなにお前を愛しているか…」

愛してる?愛…?愛とはこれ程までに鉄の味がする物なのか。
空想した。「愛」と描かれたガラス板が細い糸で宙吊りに浮かんでいる。それは静かに回転し裏返ると描かれている文字は「憎」だった。ゆっくり回転を続け、再び「愛」へ裏返ろうとした時にその糸は切れ、落下したガラス板は粉々に砕けた。
裸になって横たわる瞳は、最早ただのセルリアンドールだ。
そんな中、唯一頭の中の思考はこんな事を考えている。

「そうだ。顔の痣を隠すあのファンデーション、もう切れそうなんだっけ…」

〜◆〜

自分で公演まで時間無いから、毎日特訓よと言ってたのはあなたじゃない。
何を3日も休んでるのよ?
自分から体調管理に気をつけてと言ってたくせに、は?体調崩した?何よソレ。
重度の生理痛?それとももしかして、私の顔を見たくなくて仮病でも使った?
子供じゃあるまいし。

先生が登校しない生徒の家を訪れる話はよく聞くけど、その逆なんて滅多にないよね。

「長谷川さん。あとどの位かしら?」
「はい、お嬢様。ナビでは5分と出てますが、この場所はよくてもあと2分で到着しますよ」

あっそ…
なかなか閑静な住宅街に住んでるのね。あのマンションかしら。賃貸の割にはなかなかいいんじゃない。

「お嬢様。着きました」
「ご苦労様。長谷川さん、ではちょっと行ってきます。車に乗って待ってて下さい」
「承知しました」

さて…と。インターフォンはエントランスにあるのね。部屋番は…あった、これね。先生、あなたの可愛くない生徒が家庭訪問に来ましたよ、と。

ピンポーン

ピンポーン

いないのかしら?体調悪い人がどこをほっつき歩いてるのよ。
「はい…あ…」
居た。カメラ越しに私を確認したわね。
「先生。悠里です。南雲悠里です。お体の調子が悪い所、すみません。会ってお話ししたい事が…少しの時間で構わないので開けてくれませんか?」
「わざわざ来てくれたの?ありがとう。でもごめんね、今、本当に体調が悪くて誰にも会えないの?今日は引き取ってもらっていいかな?」
「先生、体調崩されてるのは聞きました。でも文化顕彰記念公演まであと僅かだから、体調を整えてって言ってたのは先生だよ。こうして教え子が訪ねて来てるんだから、一目会ってくれてもいいんじゃない?」

何を子供みたいな事言ってるの?大の大人が登校拒否じゃあるまいし。あなたは教師の端くれでしょ?甘えるにも程がある。
生徒にここまで言われて、エントランスの自動扉、開けてくれるよね?

「ちょっと!先生!聞いてるの!?」

〜◆〜

もう…サイアク。
よりによって、一番会いたくないお嬢様が来るなんて。
何しに来たのよ。もう芝居なんてどうでもいいのよ。察しなさいよ。どうせ私の顔の痣を見て笑い者にしたいんでしょ?
あなたみたいにね、恵まれた人生を歩んでる子供に、私の気持ちなんてわかるわけないわ。

あの人もね、かつては優しかったのよ。こんな暴力振るうよな男じゃなかった。
芝居もさせればそりゃ才能も情熱も溢れてた。
私は彼と一緒になって彼の役者としての才能が花開くまで彼を支えようと夢見たの。
所詮夢よね。とっくに夢は破れてたのにまだこんな暮らしを続けてる。

「ちょっと!先生!聞いてるの!」

何よ、その剣幕。聞こえてるわよ。
まぁ、こんな所で自分の正当化を弁解した所で仕方ないしね。
開けてあげるわよ。私の顔を思う存分見ればいいわ。何もかも恵まれたあなたには、こんな世界もあるんだって事、よ〜く勉強させてあげるわよ。

〜◆〜

観念したかの様に玄関のドアは開かれた。一瞬、空気は凍りついていた。瞳は俯きもせず、腫れたまま、痣だらけのままの顔で悠里を正視した。

「人に見られたくないの。入ってもらえる?」 
悠里は黙って頷いた。
「散らかったままよ。ソファーでもテーブルでも適当にかけて」

部屋は昼間なのにパステルグリーンのカーテンを閉めて世界を遮断しており、隙間から差し込む陽光がテレビ前の一角に散らばるゲームCDロムを照らしている。そのコーナー以外は粗方、整えられた部屋だ。
悠里はテーブルのチェアーを選んで腰を下ろした。 

「ゲームは彼氏さんの?先生はゲームなんてやらないよね」
瞳の顔を見てから、かける言葉を見つけられずにいた悠里が、ようやく出せた話題はそれだった。
「そうよ。私は好きじゃない。珈琲飲める?紅茶もあるわよ。貴方の家にあるのと比べたら安物ばかりだろうけど」
瞳はケトルに溜めた水をIHヒーターで沸かしにかけた。悠里は黙ったまま瞳を見つめ返した。ダイニングキッチンにいる瞳はその視線を受けて腕を組む。交錯する視線。役者で言う、台詞の無い無音の会話がそこにはある。
「貴方が責めに来たのはわかったわ。公演間近で何休んでるのよ、ってでしょ?これが理由よ」
「DVはいつからなの?慢性的?」
「そうね、もういつからこうなのかも覚えちゃいない。でもここまで酷いのは今回が初めてかもね。メイクで隠せもしない」
瞳はカップを取り出しに食器棚へ向かう。これ以上詮索するなとばかりに。しかし悠里の質問は彼女を追った。
「今日、彼氏さんは?」
瞳はカップをカチャカチャと物色しながら、背を向けたまま答えた。
「バイトよ。役者を夢見て芝居やってる人なのね。だからって訳じゃないけど仕事にまともに就いた事もないのよ」
「そうだったのね…それより先生、文化顕彰記念公演、あと10日なんだけど。つまり文化の日までって事ね。諦めるつもり?」
「それより?」
悠里の話題の切り交わし方は、風船を割るか割らないか程度の僅かな針で突いてきた。

「貴方だって、気に入らないなら止める?ってこの前、私に聞いてきたでしょう。私はこんな小さな町の舞台、流れてもどうでもいいのよ」
「先生がそんなDVを受けて悩んでるなんて知らなくて。それは本当にごめんなさい。でもね、それはそれ。状況が変わった。
私達はたとえ小さな町の舞台でも、あの「ロミジュリ」を演らなきゃならないの。私は先生がわざとレベルの高い演技指導をぶつけてきてもね、負けてなんかられないわ」 
悠里がまくし立てた。そして対峙し合う二人の間に、湯が沸騰したケトルの笛が割って響いてきた。
「…何よ、その変わった状況っていうのは?」
静かな口調とは対照的に瞳の目には怒りの色が満ちていた。
「簡単な事よ」
それでも悠里も怯まない。いつの間にか彼女も立ち上がり腕を組んでいる。

「私は先生にも誰にも負ける訳にはいかないの。先生のこの境遇、確かに他人から見たら同情に値するかもね。
どう?先生ももしかしたらどこかで悲劇のヒロインになりたいんじゃなくて?
私は違う。辛い状況にある先生が腐っていたら、それ以上の辛い状況をも乗り越える事で先生を超えてみせる。
私は女優になるの。あなた以上のね」
図星かもしれない。瞳にとってそれ以上に意外に思えた事は、この娘は瞳が思う以上に瞳に意識し固執しているかもしれない事だった。いつしか悠里も瞳を「あなた」と呼んでいる。
「私以上?何を言ってるの?私はしがない高校の一教師じゃない」
悠里には動揺を見せたくはない。もちろん日頃から弱みすらも見せてはいないつもりだ。今もこんな傷だらけの顔になっても、この娘にだけは余裕の態度を装おうとしていた。
二つ並べたカップにティーバッグを置き、お湯を注ぎ込みながら。

「隠さないでいいよ。私は子供の頃、先生が演じた『ロミジュリ』の舞台を観てるのよ。その演技は素晴らしかった。世のどんな名作やドラマに出ていた女優さんよりもよ」
瞳は冷静を装うが正直驚いた。
過ぎた話ではあったが、まるで意識もしない角度からの賞賛だった。瞳の胸に当時の演劇や荒木に対する想いが一瞬蘇る。
「ロミジュリ」は、瞳がかつて所属した「劇団フォレスト」の代表作。シェークスピアの「ロミオとジュリエット」を、現代の日本を舞台にアレンジした現代版であり、名前も日本風に変名した路未(ろみ)と樹里(じゅり)の御馴染みの悲恋物語だ。
ただ同作品の多くの芝居は感情剥き出しが定番だが、演出家の荒木史康は「感情は抑えて抑えて、そして溢れ落ちてしまう」という現代風のクレバーな演技に拘った。

「わかった?私があの劇団のロミジュリを選んだ理由が。それだけじやないわ。私がこの学校へ入学した理由よ。
そう、あなたもよく言う『こんな学校』をわざわざ私が選んだ理由はね、先生、あなたの元で演劇を演りたかったからなのよ。
あなたはね…こんな、世捨て人みたいな、抜け殻みたいな事してていい場合じゃないのよ。先生には私を女優にする責任があるの」
瞳は彼女に「氷の台詞の少女」という印象を持っていた。学生時代の孤独な自分にどこか重ねたりもして。そんな悠里が一気にまくし立て続けている。
元々口調のキツい少女ではあったが、その言葉に熱を帯びた事はない。初めて見る悠里の一面に、そして何より自分を知っていたという事実に驚きもしたが、それでも瞳は落ち着いて見せた。
心の中では「ずっと抑え続けていた感情が溢れてたのね。でもまだ強固なコンクリートを突き破る鉄砲水」などと考えている自分もいる。こんな時まで芝居の事を考えているなんて、と。
しかしその思いは伏せて、瞳は頭を切り替えた。

「それは少し大袈裟じゃない?私が貴方を女優にする?
無理よ、そんな力は私にはないわよ。
あなたが私の芝居を観てたとは…それで私を追ってこの学校へ来たとは正直驚いた。確かよ、それは。
そして馬鹿だとも思う。こんな私を追って人生を棒に振るなんて。きっと貴方はもっと名門と呼ばれる様なお嬢様学校に行けたでしょうに。
女優になりたきゃね、あんな小さな演劇部で稽古してるより、もっと大きな劇団に入るとか、オーディションを受けるとか、道は幾らでもあるはずよ」
「いいえ、それ以外の道は考えられない。あなたは演出家の荒木史康の演技指導を受けて、彼の作品のロミジュリを完璧に演じてたの。あなたは私ともう一度ロミジュリを作り、私はあなたを、あなたは荒木を超える必要があるのよ」

この迸る十代の娘のエネルギーは何なのだろうか。不思議と瞳の心を突き動かし続けている。
それは微動だにしないと思われた大きな庭石が、5センチ移動させたに過ぎない程度に似ているが、それにしてもだ。大の大人が数人がかりで押したり引いたりしての力技ではない。物理、原理…得体の知れない『理』を用いた様に滑らかな突き動かされてる事を感じている。
おそらく…彼女の口から荒木の名前が出たからだろう。悠里が荒木を知っているのか尋ねたかったが、今はやめた。代わりにため息を一つこぼしながら紅茶を悠里に差し出した。

「南雲さん、あなたは私を買い被り過ぎたわ。ありがたいけどね、無理よ。私の顔を見なさい。今はね…私に荒木先生の芝居をやる資格なんて無いの。これはその罰」
「先生!いい加減にして下さい!」
悠里の激昂を合図に、瞳の中でも理性を支える箍が外れた。今度は瞳のダムが決壊する番だった。悠里のそれより更に大きく。
「じゃあどうすればいいのよ!」
生徒の…しかも悠里の前ではけして流すまいと思っていた涙が不意に噴き出た。悠里は黙って睨み続けている。
「あなたに私の何がわかるっていうの…」
瞳のダムがとうとう崩れ落ちた。
「ええ、先生。わからないわ。同時に先生にも私の事などわかりはしない」
悠里は冷淡に答えた。そして差し出されたカップを口元へ運び、温かい紅茶を一口含む。
瞳は何故、こんな少女にダムを決壊させられねばならないのか。この少女は何者なのか。何故にこれ程大人びて、何が憎くて自分をこれ程までに追い詰めるのか。
泣いた。壮一郎に殴られても泣かない瞳が泣いていた。

「先生、やり直したくはない?」

やがて悠里は優しく諭す。そして瞳の返事を待っている。
「そう思っても…もうどうにも出来ないのよ…」
瞳はひと仕切り泣いた後、無理な作り笑顔で強がってみせる事で余裕を取り戻そうとしている。私はすべての運命を受け入れてる…そう言い含めながら。この少女との得も知れぬ駆け引きはまだ続きそう。主導権を握るには余裕が必要だ。
「それは先生がそう決めてるだけだわ。何とかなるし、何とかしてみせるの。私はそれしかやり方を知らないで生きてきたから」
高校生の女が、何を高尚な事をほざいているのだろう。言い返したい言葉を飲んで、瞳は余裕を演じ続けた。 

「何かいい方法ある?」
瞳は涙を拭いながら尋ねた。あなたに何が出来るの?暗喩と疑心を込めて。
「あるわけないでしょ?」
しかしその疑心を軽く砕く様に悠里はサラリと言い放った。
「あるわ。逃げるのよ、今すぐここを。先生!目を覚まして、そして最低限の荷物を今すぐまとめるのよ。考えてる時間なんてないわ」

〜②へ続く〜


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文霊 〜フミダマ〜

言葉に言霊 文に文霊 ポエム、エッセイ、ドキュメント、ノベル… 長文に短文、そのジャンルに合わせて、 素敵な感性と叙情詩溢れる表現力を磨いて、豊かな文作能力を身に付けたい物です。 そんな表現能力向上委員会のページです。このブログは。