Short Story【やまね雨】⑧

◆◆ 本章 ⑦    最終章 ◆◆

ドゴーーン!ドゴーーン!
ヒュルヒュルヒュル…ザッパーーーーーーーーン!

そばでよしこちゃんの亡骸を抱きしめて、泣きわめくお母さん。

「ワァァァァァァァ!ワァァァァ!」

おびただしい血で赤い甲板。クレーンの残骸。数えきれぬ程の遺体の山。それも船首の傾きと戦闘の衝撃で何体も海に飲み込まれてゆく。

兵隊さん達はそれでも残された命を守る為に砲撃を続けていた。

私達家族は抱き合ったまま、目の前で二歳のよしこちゃんが犠牲になったのを目の当たりにして、すっかり身体が固まっていた。
その時、甲板で知らない誰かが一人、立ち上がって歌を歌い出したのさ。

「きぃみぃがぁぁよぉはぁ…」

次の小節を続く人もいた。自分達の闘志を奮い立たせようとしたのか、恐怖を間際らせたかったのか。そのどちらともなんだろうね。
私はまた目を閉じて、その歌声を聴きながら、学校の音楽の授業を思い浮かべようとしたよ。そして囁く様な小さな声で、私も合わせて「君が代」を歌った。
ひろちゃんも歌い出した。続いてみえちゃんも。
歌い終えて…目を開けばあの学校の教室だろう。教台に先生が立ち、周りにはクラスメイトに囲まれて、そして新興丸の出来事はすべて夢なんだ…
そう思いたかった。
目を開けた。やはりその惨劇は夢ではなかった。

私は母、みえちゃん、ひろちゃんに尋ねた。
「この雨…いつ止むの?」

「雨…止まないね…」

雨なんかじゃない。この戦闘は現実で、けして雨なんかじゃない。誰の目にも明らかなのに、みえちゃんが私に合わせて答えてくれた。

「死なないよ!死んでたまるか!お父さんとお兄ちゃんと約束したんだ!」

ひろちゃんが叫んだ。

「ここにいても危険なだけよ!船内に避難しよう!ね!お母さん!」

「そうだね。ここは危ね。まずひろちゃん、ともちゃんを連れて、体を低くして先に階段の入り口まで行って。みえちゃんとお母さんも後から必ず行くから」

ひろちゃんはまだけして「生」を諦めてなかった。私は…あの時の私はどうだったんだろう。
もうダメだ、ここで船も沈み、私達は父やお兄ちゃんに再会する事も出来ずに死ぬんだ…そう思っていたのかもしれない。とにかく自失呆然だった。現にその数分前に、よしこちゃんが息絶えてゆくのを見ていたばかりだ。足元がすくんでいた。

「ほら、次に攻撃が弱まった合間に階段の所まで行くよ!ともちゃん!」

そんな私の背中を押してくれたのは、やはりひろちゃんだった。

「ともちゃん。ひろちゃんが付いてくれれば大丈夫でしょ?ひろちゃん、私もすぐ後を追うよ。本当に気をつけて」

みえちゃんも言ってくれた。私はもう一度、枯れかけた勇気を出そうと思った。
ひろちゃんは勇敢だった。有言した通り、次の掃射が止んだ合間に、私の手を強く引き、体を屈めて駆け出した。
泣き続けるよしこちゃんのお母さんの横も走り抜けた。

船倉へ降りてゆく階段までは三十メートル程なのに、やけに遠く感じた。船体が傾いているせいもあるかもしれない。とにかく無我夢中だった。

タタタタタタ!

また機銃掃射の音が鳴り出した。撃たれるかもしれない…どうにでもなれ!そんな考えもよぎりながら、ひろちゃんに手をグイグイと引かれ、振り向かず走った。無我夢中で走った。もう…ただひたすらにね。何体も横たわる亡骸につまずきながら…踏みつけながら。
そうして出入り口の鉄の扉を開け、階段までたどり着いた。
それから一〜ニ分くらい経ったろうか。とても長い時間にも思えたけどね、次の機銃掃射の合間にみえちゃんとお母さんもたどり着いたの。
扉を閉めると、外の戦闘の音量が少し遠のいた様に感じた。

四人、また無事に揃った事を確認して、ひろちゃんは言った。

「さぁ、船倉に降りよ!」

四人で階段を降り出し、三段目にさしかかった所で私は…安心感からか、腰から崩れ出し、階段に座り込んでしまったの。ひろちゃんも、もう油断してたね。繋いだ手が離れたよ。

「どうしたの!?ともちゃん!」

「やだ、もうここでいい」

「何言ってるの!こんなトコじゃ、大きな大砲打たれて吹き飛ぶかもしれないんだよ!」

「もう、私、走りたくないよ」

頭の上から母とみえちゃんも私に声をかけた。

「ともちゃん、ひろちゃんの言う通りよ。多分、船首の方の船倉は水浸し。船尾の方へ進めば大丈夫よ」

「やだやだ!」

「ともちゃん!」

ひろちゃんが手を振り上げた。叩く前ふりだ。本気で叩かれた事はないけどね、ともちゃんが私を怒る時、いつもこの仕草をする。
でもこの時、私は叩かれようと何をされようと、本当にヘトヘトだった。
みえちゃんが、本当に私を叩くのかと思って声を張り上げた。

「やめなさい!ひろちゃん!」

でもね、その時のひろちゃんは、そんなみえちゃんの懸念もよそに、私の顔の前に手を差し出しただけだったの。そう、握手を求める感じよね。

「さぁ、ともちゃん、もう一度、この手を繋いで!」

そのまま私は、その手を受けずに座り続けてたよ。
何十秒くらいかな。外の戦闘の音はまだ止まぬ中、私達四人はその場で動かずにそうしていた…

「あっそ」

ひろちゃんは手を下げた。そして背を向けて階段を降りて行ったの。割と長い階段よ。

「あとはみえちゃん、ともちゃんの面倒を見てね」
拗ねた様にそう言った。

階段の下は広い吹き抜けになってて、船首の方と船尾の方へ繋がる通路が。そして互いの方向にはまた鉄の扉も見えたよ。
船尾へ向けて避難で走ってゆく人達もいた。みんな急いでた。
ひろちゃんは階段を降り切って振り向いたよ。

「お母さん!みえちゃん!早く!」

その直後だった。

ベキベキ!ガッシャーーン!
ドドドドドドドーーーーッ!

船首側のその扉をぶち抜いて、もの凄い轟音と共に大量の水が流れ込んできた。恐ろしい、津波の様な…暴れ狂う巨大な龍みたいに。
ひろちゃんが驚いたよな表情を見せたのも一瞬で、たちまちその水に飲み込まれた。

「ひろちゃん!」

私ゃすかさず立ち上がったよ。そして階段を降りようとした。

「あぶない!」

母とみえちゃんが私の体を止めたの。でも私は必死に振り解こうとした。
そして今度は私を止めた母も「浩子!」と叫んで階段を降りようとした。みえちゃんはそんな母の体も抑えた。

水は真っ黒で、そして凄い勢いでその吹き抜けになってる空間でゴウゴウと渦を巻き出した。水面から時折、人の体の一部が見え隠れする。何人か飲み込まれていたはずだ。

私はまだ諦めたくはなかった。そのどれかの手を繋いで引き上げれば ひろちゃんが…ひろちゃんが…
水位はどんどん上がっていった。

「ひろちゃん…ひろちゃん!ひろちゃーん!」
「浩子!浩子ーー!」

水流の流れの轟音にかき消されながらも、私と母は叫び続けた。みえちゃんは…本当はみえちゃんも叫びたかったに違いない。でも今にも後を追いそうな私と母を力一杯取り押さえている事で、声も出せなかったんだと思う。

そして一瞬。ひろちゃんの上体が水面から顔が出た。顔から血を流し、変形していたようにも見えるけど、私がひろちゃんを見間違える訳がない。もの凄い水流と渦の中で、船内のあちこちに体をぶつけているに違いないんだ。目はうつろだ。

「ひろちゃん!」
「浩子!」

私も母も同じ思いだったろう。今にも飛び込みたかった。みえちゃんの制止さえなければ。
グルグルと渦を巻く中で、もう一度、ひろちゃんの上体が出た。何か言った。口から水を噴き出しながら。

「生ぎろ!」

私にはそう聞こえた。ひろちゃんの最期の言葉は断末魔などではない。私達に「生きろ」そう言った。

「ひろちゃん!ひろちゃん!やだやだ!ひろちゃん!やだー!死なないでー!」

力の限り叫んだ。
ひろちゃんの姿は二度と水面の上には現れなかった…

やがて渦は収まるも水位は上がり続け…私達の立つ階段の上から三段目。そのすぐ足元まで上がっていた。そこが九死に一生を得るボーダーラインだったんだ。

私達三人はそこに座り込んでいた。ついさっきまで四人でいたのに…三人だ。誰も口を開く者はいなかった。またしても私は…夢じゃないかと思った。夢なら覚めて…心からそう祈った。
外ではまだドカン、ドカンと戦闘の音が鳴り止まない。

「不条理」は、私から…大切な姉を奪い去っていった。

〜◆〜

何でもないような事が…幸せだったと思う…
何でもない夜の事…

〜◆〜

どれ程の時間が流れたろう。
ザッパーーーーンという大きな水柱が立つよな爆発音が聞こえ、暫くして甲板に歓声が湧いた。そしてそれ以降、砲撃の音は止んだ。

私達親子もフラフラと甲板にまた出た。
海上には黒い液体が広がっていた。おそらく重油だろう。乗組員の兵隊さん達が、敵の潜水艦を撃沈させたと言っていた。

どうやら…私達は助かったらしい。その事がわかった。

「終わったのね…」

みえちゃんがボソリと言った。それに対して母は黙って頷き、膝から崩れて、そして激しく泣き出した。
私もつられて母を抱きしめて泣き出した。
その上から、私達を包み込むようにしてみえちゃんがかぶさり、そしてみえちゃんも泣き出した。
涙が枯れるまで…三人で泣き続けた。

〜◆〜

機関を何とか損傷を免れた新興丸は、小樽行きを断念し、そこから一番近い留萌港へ向かう事になった。
だけどね、水もたっぷりと含んでしまい、船も元々の12ノットというスピードはもう出せなくなって5ノットという通常の半分以下のスピードで海を進んだ。
留萌に着岸すると一斉に乗員は下船させられた。
母はひろちゃんの捜索を申し出るけどね、それは叶わなかった。船首部分は沈んでいったんだよ。

生死を分けた階段の三段目。私に力があったなら…
ひろちゃんが差し伸べた手を取り、降りないと強く彼女を引き寄せていたなら…あんな事にはならなかったのに。
私は自分を責めた。いつも手を繋いで離さなかったひろちゃんの手を、私から離した。
母も別のタラレバを口にした。いや、私がそもそも船内へ行かせようとしなければ…と。
そして母は、みえちゃんをも責めた。何故、あの時行かせてくれなかったの?と。みえちゃんは泣きながら言った。

「お母さん、お母さんまでいなくなったら、お父さんも利夫も悲しむでしょ。あの時…お母さんまで逝ってしまえば…ともちゃんまで行こうとしてたじゃない。二人にまで逝かれたら…私一人ぼっちじゃない。私一人で…私一人で…」

そう言ってあの一番年長の姉のみえちゃんも激しく泣き出した。

悲しみはまだ続きがあったのよ。

新興丸が攻撃を受ける一時間前、朝の四時頃。
ちぃちゃんが乗っていた小笠原丸もやはり潜水艦の攻撃を受けて沈没。
更に九時頃、みよちゃんが乗ったはずの泰東丸も潜水艦の攻撃を受けて沈没。
ちぃちゃんはお医者さんに。みよちゃんは学校の先生に。ひろちゃんは女の政治家に。それぞれなりたいと願った夢は永遠に叶わなくなったんだ。
一日で枯れ落ちる浜茄子の花みたいにね、彼女達の花もあの夏…散ったんだ。

〜◆〜

それからというもの、私達家族は母の実家で世話になるんだ。母の弟…私とみえちゃんからすれば叔父だね。美樹も会った事はあったかなぁ。義雄叔父さんに、蔵を分け与えてもらうんだ。
そこで母も漁業手伝いで、みえちゃんはやはり裁縫の仕事で生活を繋いだよ。

あぁ、その時に、最初の方で教えた「デノミ」って事も日本では行われたのさ。あれも世の中を変えちゃう大変な事なのよ。
簡単に言うとね、国民全部の預金を封鎖して、その間に新しい通貨を出すんだよ。そしてね…新しいお金の価値をグンと上げちゃうんだ。合わせて物価も上がる。
そして旧通貨の金額は…新通貨に両替すると、グンと価値が下がってしまう事さ。わかりづらいかい?
例えばね、今の一万円が一円くらいに下がるのさ。
何故そんな事をしたかって?そりゃね、永介。戦争で日本はもの凄い借金が残ったからだよ。

二人ともこれでわかったかい?
最初に言った、これが平常時ではない、世の中を変える『異常時』の四つの条件だ。
おさらいするよ。

まず一つ目に今みたいな疫病のパンデミック。

二つ目に震災、台風、豪雨などの天災。

三つ目がクーデターやデノミ、社会の仕組みや構造を反転で変えてしまう事件や出来事。地下鉄サリンなんかもある意味じゃクーデターだ。

そして四つ目で一番地獄なのが戦争さ。

まだみえちゃんが生きてた頃…美樹にみえちゃんが言った事があるだろ。
「私達姉妹には、恐怖が欠落してる…怖いものが無い」ってね。
そりゃぁそうだろ。その四つの条件全てを経験してきた。そしてその中で戦争を一番最初に経験してる。
命さえ落とさなければ、感じる恐怖なんてね、全て幻想だよ。

あ、ちなみにね。
私達が留萌に着いてから二年の歳月が流れ、父とお兄ちゃんも樺太から引き揚げてきた。
樺太に残された人達の苦労も聞かされたよ。この戦闘を三船殉難事件と呼ぶんだけとね、それがあって結局、島内すべての婦女子・老人の送還は断念したからね。日常茶飯事の強奪、強姦…女性は男装したり、命を守る為に朝鮮人と結婚して生き延びていった。
そんな樺太から、二年で戻ってこれたのも奇跡さ。ありがたかったね。

家族は五人になったけど、父と母は新しい家を建てて引っ越し、私達はひろちゃんの供養を続けながら新しい出発をしたのさ。
それからは美樹もわかるだろ。今に至る、だ。

私も成長し、みえちゃんとも大人の会話が出来る様になってきた。そこで誓った事があるんだよ。

私はずっと、ひろちゃんに手を繋いできてもらった。そしてあの時、ひろちゃんの手を取らなかった。
これからは一人一人、浜茄子の花達が私が差し伸べる手を必要とするなら惜しみなく手を出してゆくよ…とね。みえちゃんも賛同したよ。
なんて事はない。私が若者を援助してきた理由なんてそんなもんさ。
ひろちゃん…みよちゃんやちぃちゃん…未来ある大勢の不条理な死…生き残ってしまった私の免罪符にしたかったのかもしれないね…

どうだい?スッキリしたかい?私はあんたらに話す事で、ひろちゃんの供養が出来たようですっかり心が浄化したよ。
ここまでで回収し切れてない疑問はあるかい?

え?何?一九九五年の私とみえちゃんの北海道旅行?あれから私が自叙伝執筆を止めたって?

美樹、よく覚えてたね。あんたもさすがにこの家の血を継いでるね。
察しの通り、あの年に私とみえちゃんの旅行の先は留萌だよ。ひろちゃんの供養の旅さ。
わからないのかい?一転して鈍いねぇ。
終戦が一九四五年。そしてその年、一九九五年は?
そうだろ?ひろちゃんの五十回忌だろ。さらに今年は終戦から七十五年だ。運命を感じるね。
幕末の戦争から七十五年ほどで太平洋戦争終戦、更に七十五年で今だよ。

あの時ね…自叙伝を書くよ、そしてこの樺太の話もひろちゃんの事も全て書くよ、と みえちゃんに伝えたんだ。留萌の沖を眺めながらね。
ところが みえちゃん、あの分からず屋め。反対しやがってさ。ひろちゃんの事は私達の胸の中に…墓場まで待ってゆこう…なんて言いやがったよ。
な〜に、口悪く言ったって構わないさ。時効だよ。
それでなのよ。みえちゃんが亡くなった後に永介にブログやらSNSやらコッソリと教わり出したのは。
もう私の好きにさせてもらうと思ってね。

え?何だい?永介。最後に今の人達に伝えたい事があるかって?

そうだね…

「人生、速いし儚いのよ。こうして不条理に幕を下ろす事もあるの。だから一瞬一瞬、やりたい事を一生懸命やらなきゃ。もっと生きたかったのに、不条理に犠牲になった人の分までね」

そう伝えたいね…
ところで東京オリンピックの話もしてくれと言ってたね。悪いけど私ゃもうこれで胸が一杯だよ。
もうこれで何も思い残す事はないよ…

あ…ごめん。思い残し…あんたらに一つずつ、まだあるわ…

〜◆〜

母は私達にすべてを語る事で、ブログもやめ自叙伝執筆を完全に断念した。
しかしこの戦闘…三船殉難事件(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸のソ連軍(と思われる)潜水艦による襲撃)と、ひろちゃんとの思い出を語り継ぐ事を諦めてはいない。
そう、あの話を私達に聞かせたのは、母の巧みな永介への扇動だった。

母の思い残しの一つ。

「どうだい、永介。あんたはただ、雑誌の記事を書くだけでいいのかい?私ゃ四年かけてわかった事がある。それはね…文章力がない事だよ。
あんたがここまでの話をレコーダーに録音したんだろ?あんたが私に代わって書きたくないかい?」

まさか、やりたい事をやれよ、のメッセージの後にそんな事を訊かれて、永介も断りようがないだろう。同情する。

思い残しの二つ目。それはみえちゃんと母から私に向けられた。

「みえちゃんの和裁の専門学校、今は人に任せてる。みえちゃんがとても信頼してた片腕存在だった人だよ。いや、私も信頼しているよ。
実はね、私はその専門学校の名ばかりの会長をやっててね。その人も承諾しているのさ。
私もその人も、あんたが経営をしたいと言い出したら、経営権をあんたに譲るという みえちゃんの遺言の条件をね。もちろん、公的な力がある遺言さ。

どうだい?やってみたくはないかい?お前もアパレルの店長をやっていたんだ。財務諸表くらい見れるだろう?それにその業界で積んできた経験は必ず役に立つはずだ。
これから四、五十代のリストラは拍車かかってゆくよ。再就職先だって簡単に見つからないだろ。A.I.化とか、難しい事は私はわからん。でもね…経営だけはA.I.なんかじゃダメさ。人がやらねば。

もちろん、条件はある。
お前がやりたいと言い出すまで、その人が留守番してくれてたようなもんだ。ただし、一年間はその人の元でしっかり経営を学ぶ事。そしてお前が社長…というか、校長か。そこに就いたらその人を会長、私は晴れて隠居だ。
どうだい?やりたいか?」

やれやれだ。母はコロナショック以前から、アパレル業界の衰退をメルカリなどの台頭や、若者の物欲減少などから予測していたらしい。
もちろん、アパレル業は必ず盛り返す。私は今もそう信じてはいる。でもその為の知恵も、ベテランの経験則より若手の自由で創造的な感性から生まれてゆくだろうと言っている。
そんな事、私にすれば遠回しに「もうお前じゃないよ」と言われているようなものではないか。

答える時間をもらって、私も永介も最終的には母の話を受けた。久しぶりに意欲に満ちている。
今日も私はキッチンでコーヒーを淹れ、自室に戻ってオンラインでその人から経営の講座を受けねばならない。来たるアフターコロナに向かって。

そう、母はコーヒーよりお茶が好きだ。たまにはお茶でも注いで、部屋に運んでやるか。

母の部屋をノックした。「はーい」と返事がする。

「入るわよ、お母さん」

ドアを開けると母はベッドで背中を向けて横になっていた。

「お母さん」

母はノソリと体を向け直し、私の顔を見つめてニコリと微笑んだ。そして私に向かって言った。

「ひろちゃん!手ェ繋ご!雨は止んだから、浜茄子さ見に行こう!」

ゆっくりと手を差し伸べて。

〜完〜


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文霊 〜フミダマ〜

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