Short Story 【苦痛】 〜麻友子と瑠美〜 ⑧

川島は立ち上がり、貸会議室の部屋の中を右へ左へ、ゆっくり歩き回り出した。
そしてその「昔話」は呼吸を整えた後、静かに語られ出した。

「30年近く遡ります。まだ独立する前、私は大手の自動車ディーラーの営業マンとして修行していました。当時から常に成績はトップでありたい、そしていつかは起業したいと野望めいていた若僧でしたからね。あの手この手を尽くして、市内を駆け回ってましたよ。まぁ、営業所内の順位は月次なもんでね。トップをずっと防衛という訳にはいきませんが、それでもやはり三位以内の上位にはおりました」

川島の語り口はけして武勇伝を嫌味や得意げに聞かせる物ではなかった。
世間の成功者が、よく「成功の法則」「成功の秘訣」と言ったテーマで講演を行うが、川島はその様な類の話をしたと聞いた事がない。
ある意味、これからの時代を担う経営者の卵にとっては貴重な時間なのかもしれない、と麻友子はボンヤリと考えていた。

「まぁ、とにかくガムシャラだった訳ですな」

そこまで話した所で川島はテーブルに置いていたペットボトルのお茶を一口飲んで、深いため息をつく。

「そこからは…どう言えばいいのやら。とにかく仕事に乗っている時、私は自分を大層な者だと思い込んでしまってたのです。恥ずかしい話ですけどね。調子に乗っていた、そう言えばわかりやすいでしょうか。
とにかく、私は販売しまくった。その販売スタイルはまるでお客様へも『私から買わないなどあり得ない。今、私から買わないなんて、あなたはおかしいんじゃないですか?』と迫るかの様に」

確かにその様な若者はいる。自分の力を過信し、世の中のすべてを知り尽くしてきたかの様な若者が。
麻友子は加藤を思い浮かべていたが、加藤と川島の姿は重ならない。あんな男でもいずれ、川島の様な人格者に変貌する時が来るのだろうか。いや、それも育成の鍵は社会に出た初期の出会いの影響が、自分の与える影響が左右する…そんな考えをよぎらせた。

今回の一連は自業自得とはいえ、麻友子自身の経営者としての資質を見直させる学びとなった。川島の話もこれからが佳境で、きっと良い話が聞ける事だろう。
今、こうして川島の貴重な話を聞ける事も、次世代同士の瑠美と違う形で知り合っていたのなら、和気あいあいと切磋琢磨で同席出来ていた事ではなかったか。そうはなれない事を深く悔やんだ。

「そんなある時、鼻を高くした私を痛めつけるお客様との出会いがありました。
ディーラーの営業の仕方はご存知ですか?主にショールームへ下見へ来た方をアンケートなどでご住所などを把握し、当時はそこへアプローチをかけるのです。季節的には高校や大学を卒業するお子さんのいる家庭だったり、新しく開業する企業へ営業車購入を働きかけたり、まぁ、今風に言えば完全なレッドオーシャンな営業ですな。
その方とのファーストコンタクトもご多聞に漏れずアンケートからです。最初はご夫婦でのご来店でした。下見でパンフレットを持ってその日は帰り、そしてそこから何度もフォローに足を運んだ。
その方は、当時の私が持ちうるどんな営業テクニックを使おうと、なかなか成約に結び付ける事が出来なかった。どんな話術も論破され、どんな価格を提示しようと突き返され、私は焦りました。
本来ならもうそのお客様は諦めて、もっと台数稼ぎの為によそを回るべきでした。ですが私はとにかくその方の成約を取る事に執着していたのです」

順風満帆にここまで来たと思えた川島にも、そんな事があったのかと麻友子は…そしておそらく瑠美も興味深く耳を傾けている。

「理由は二つありました。既にその頃には自分の思い上がりを痛感しましたからね、それを克服しようとしてです。
もう一つ。その方は美しい女性です。お子さんもいらっしゃる方でした。ご自分とお子様で行動する際のセカンドカーをお探しだった様です。ですがその方は毎回必ず「出直してきなさい」と私を突き返すんです。けして「もう来ないで下さい」ではありせん。そして私は何度も出直すんです。私はいつしかその方に会う事が楽しみになってしまっていたのです。惹かれてゆきました」

空気の流れが変わり出した事を、その場にいた者は皆感じ取ったに違いなかった。達郎も腕を組みテーブルの上の一点を見つめ動かない。瑠美も椅子の背もたれから背を離し、テーブルに肘を付いた。

「彼女からは多くの事を学びました。まぁ、月並みな事ではありますが、謙虚な姿勢ですとか、お客様本位にならねばといった所ですかな。今となっては当たり前の感覚も若い私には欠けていたのです。
しかし彼女はそんな私を、怒鳴る訳でもなく優しく悟らせる様に接してくれた。その笑顔も見たくて足を運んでいました。
ご主人ともその後何度か会いはしました。ですが殆ど奥様とだけ私は会っていました。それはそうでしょうね。普通はご主人の在宅日時を聞いて伺うべきなのに、あろう事か私はその逆をしていた訳ですから。商談を口実に彼女と会いたかった。営業マンとしてあるまじき不純さでした。
ご主人はご自分で仕事をされてて、家庭を顧みる事も少なかった様です。私はご主人のいない時を狙って足を運び続けてました。
しかし…いつまでも契約をノラリクラリと引っ張る訳にもいきません。私も会社には粘り強さをアピールし続けてましたが『いい加減に白黒付けろ』と言われ出したし、奥様もご主人に『いつまで決めかねてるんだ』と言われた様でした」

麻友子も瑠美も、予想してはいなかった展開に固唾を飲んでいた。
再び、川島はペットボトルを手に、そしてお茶をゴクリゴクリと流し込む。

「失礼。こんな告白は私も生まれて初めてでして、喉が渇くものです。
結論は、その奥様からご成約頂きました。嬉しい事の筈ですが、同時に寂しい事でした。彼女と会う口実は極端に減る訳ですから。
そしてその後、彼女がエンジンオイル交換に来店した際に再会する事がありました。胸が踊っていました。私は『車の調子はどうですか』と声をかけました。しかし彼女から返ってきた返事は、また私に会えて嬉しい…そんな言葉だったんです。
思えば、彼女の方も商談を引き伸ばしていたのは、私と会う回数を増やすよな算段が合った様です。彼女は家庭では寂しかったんだと思います。
そして私は…過ちを犯しました。今となっては彼女は本気だったのか、火遊びだったのか、知る術はありません。誘ったのも…私です。理性ではいけない事と知りつつも、私は…ご主人もお子様もいる方と関係を持ってしまったのです」

麻友子も瑠美も、途中から話の着地点は予想出来てきたものの、あらためて川島本人の口から打ち明けられると特別な重みに感じていた。
川島は三度目のお茶を口にした。達郎は変わらずに沈黙を貫いている。

「麻友子さん、本当に申し訳なかった。私にはあなたを責める資格など元々なかったんだ。
今の私がこうしてあるのは、紛れもなくあなたのお母さん、そしてお父さんのお陰です」

麻友子の心の隙を突いて刹那の空白が広がった後、意味の理解をした時には稲妻に打たれた様な電流が全身を駆け巡った。

〜◆〜

帰りの車の中、達郎も麻友子も一言も言葉を交わせずにいた。
いや、もう十分過ぎる程、声にならない声で親娘の会話は交わされていた。麻友子にはドッと疲れが押し寄せた。

麻友子は目を閉じた。だがそれでも、つい先程まで貸会議室の中で繰り広げられてた場面が、色褪せる事なく反復してくる。

川島の「昔話」を聞いた瑠美は川島を、そして達郎を、激しく罵った。余程の激情家なのであろう。

「何?何なの!?この下らない茶番劇は!川島社長、いえ…私がわからないのは坂上社長!あなたです!何なんですか!?一人の女を共有した友情ですか!?
そしてあなたは自分の妻を寝取った男に、その母親の血を見事に継いだ娘の罪滅ぼしでもさせてるって訳!?冗談じゃないわ!」

「茶番…か…川崎社長。確かにあなたのおっしゃる通りかもしれない。しかし、罪滅ぼしなどとは思わないで頂きたい。私は自分の『人を見る目』には自信があり、地域経済を活性化させる次世代を育てる…その信念に従ってあなたに出資や投資、仕事の依頼を持ちかけている」

「恩きせがましく言わないで下さい!」

「では…どうしますか?あの話は無かった事にしますか?」

「私はまだ一言もお受けするとは言ってません!持ち帰らせて頂きます!」

瑠美の嫌悪感と葛藤は手に取る様によくわかった。麻友子は溢れる涙を止められずにただ泣いた。泣き続けていた。涙の理由はわからない。
ただそれは、川島による仲裁であるとか、仮に川島個人の罪滅ぼしだとしても感謝の涙ではない。おそらくそれは、尊敬する達郎へ母娘二代に渡りこの上ない苦痛を負わせた事への涙であろう。自分自身を心の底から憎んだ。侮蔑したかった。

瑠美と川島の二人の議論が続く中、横から割って入ったのは達郎だった。

「確かに私と川島の関係は普通じゃない…そう思われても仕方ないでしょう。川崎社長、私はその時、あなたでした。川島は…麻友子でした」

とうとう麻友子は嗚咽を堪え切れず崩れ落ちた。
瑠美は何も言わない。理解出来ない…想像の範囲を越えている。
貸会議室の部屋の中では麻友子が泣きじゃくる声だけが響いていた。

しばしの沈黙の後だった。川島が続きを話し出したのは。

「私と彼女がシティホテルを出る時でした。偶然ラウンジに居合わせた坂上と鉢合わせになったのです。私と彼女は繋いでいた手を離し、そして彼女は一人で扉へ向かって歩いてゆきました。
坂上と彼女はすれ違い様、何も言葉を交わす事もなく。彼女は一人、ホテルを後にして去ってゆきました。
私は…坂上の元へ行き、下手な弁解をしていたと記憶しています。坂上は、『ここでクライアントと打ち合わせを控えている。君と話している時間はない。帰ってくれ』と言い張っていましたが…ただ帰り際に私にそっと『愛していたのか』と尋ねてきました。私はジッと彼の目を見て、頷きました。
坂上は寂し気な目をして『そうか』と言い『行け』と私をその場から帰したんです」

瑠美は達郎へ顔を向けて尋ねた。

「坂上社長はその後で、慰謝料の示談をしたのかしら?道理で慰謝料のお話にも詳しい訳ですね」

皮肉が込められている事は十分にわかった。麻友子もひと仕切り泣き、涙を拭いながら達郎の答えを聞こうとする。聞かねばならなかった。

「いや…」

達郎は組んでいた腕を解き立ち上がって、背を向けた。

「私は離婚を選びもせず、また、川島に慰謝料も請求はしませんでした。妻には自分の事務所の手伝いをさせ、もう二人が会わないように約束をさせました。気持ちを整理しろとね、そう伝えて…私の「整理」の定義は「いらぬ物は捨てる」物であっても感情であってもです。
私自身、妻に寂しい思いをさせていた事も事実でしょう。反省もしましたし、尚、怒りや憎しみの気持ちを私自身、整理しようと決めたのです。
そして代わりに私が彼に代償として求めた物…この地域を牽引してゆく、人格者の経営者になれと…それだけです」

瑠美は肩をすくめ、呆れた表情を作った。

「馬鹿げてる。馬鹿げてますわ。川島社長、今日は本当に茶番劇場へご招待頂きありがとうございます!十分に楽しませてもらいましたわ。今日はもう失礼させて頂きます」

瑠美はそう言い、立ち上がってバッグの肩紐を肩にかけた。

「尚、先程の話の正確なお返事は明後日夕方までお時間を下さい。川島社長宛に私から直接お電話させて頂きます」

そう言い残し、瑠美は貸会議室の部屋を足早に後にし去っていった。扉の閉め方は怒りの感情を表すかの様に乱暴だったが、麻友子にはその後ろ姿がどこか哀れに見えていた。

「川島…どうだ?彼女はお前の話、受けると思うか?」

達郎が表情を和らげて尋ねた。

「なぁに、受ける筈だ。彼女は馬鹿じゃない。受けた方が会社の為だと気付いてるさ」

二人は顔を見合わせて微笑んでいた。
麻友子は狐に化かせれた気分でいる。今までの話は真実なのか、芝居なのか。麻友子にはそれを見極める術はない。

その場面を思い出しながら、麻友子は走る車の窓から街の夜景を見つめていた。街灯の光が、麻友子と達郎の体をスキャンする様に流れてゆく。

「お前自身、気持ちの整理整頓は出来たか?」

不意に達郎が問いかけてきた。静寂に耐えかねた様だ。

「彼への気持ち?」

「フッ、そんな物を聞きたい訳じゃない。お前が本当に私の跡を継ぐ覚悟に当たってだ」

痛い質問だ。
今回の件は、本当に自分を見つめ直すいい機会だった。そして自分にはまだ、瑠美の様な資質も覚悟も無い事を思い知らされた。
きっと自分は佑志の事も、自分よりも更に経営者としての資質が無い事を見下し、そして利用していた様に思う。だが本当は彼は弱い自分を映す鏡だったのだ。
これからの瑠美に管理されてゆくであろう彼の人生を同情すると共に、自分も達郎にまだまだ鍛えられてゆくしかないと感じている。
『私は…あなたです』本当に達郎の言った通りだった。達郎と瑠美が重なっていた。

「私…いずれお父さんの跡を継ぐわ。必ず。でも…今はまだ無理。自惚れてたのね。それがよくわかったの。
ねぇ、お父さん。もう少し…引退はもう少し先に伸延ばさない?」

達郎はすかさず答えた。

「当たり前だ。お前にはまだ任せられないという事がよくわかった。今のお前は、あの女社長の足下にも及ばないぞ。一から鍛え直すつもりだ」

「良かった…」

「良くないぞ。お前は川島と一緒だ。私の言う事に何一つ嫌とは言わせない。まずはお前が持ってる余計なプライドを整理しろ」

「プライド?もう捨てたつもりよ」

「いや、まだだ。まだ捨て切ってはいない。その左手首の高級な腕時計…高級な外車が一台買える位の時計だろう。まずはそれを中古買取店なりネットなりで売ってこい。全てはそこからだ」

麻友子は左手首のパテック・フィリップを覗き込んだ。父親・達郎の信念、『整理整頓』そうか…私はこの相棒と別れさせられるのか。麻友子は苦笑した。
不思議とその別れの辛さの方が、佑志ともう会わない事よりも寂しかった。

そんな麻友子の綻びを見て、達郎はユーモアを込めて言った。

「いいか。お前の為に会社としては慰謝料など払わんぞ。それで慰謝料なんてさっさと払ってしまって身軽になっちまえ」

〜◆〜

五月も半ばを迎え、坂上会計事務所にもようやく幾らかの余裕が見え出していた。加藤を除いては。

「さ!加藤くん、今日はノー残業デーよ!早く仕事を片付けて帰るわよ!」

「専務!勘弁して下さいよ!川島グループの川島建設と川崎電設の業務提携で、本当に追い込み所なんです!専務も手伝って下さいよ!」

「そうね、あちらさんも今期は巻き返しよね。でもごめん。今日はどうしてもダメなのよ。知り合いと食事のアポなの」

「うわ〜出た!ま〜たあのイケメン弁護士さんとデートですか!?樋口さんでしたっけ?ホンットにもう〜。。!」

「あら、彼とはそんな関係じゃないわよ。今日はね…そのあなたが取り込んでる川島常務さん」

「え!?何で!?どーゆー事!?」

前日かかってきた川島賢一からの電話は、麻友子にとっても本当に不意打ちだった。『いつぞやは本当にご無礼だったと、ずっと気がかりでしてね。お詫びに食事でもご一緒にと思いまして』
会話を思い出し、麻友子は緩んで微笑をこぼす。

「専務、あの人は川島モータース常務でもありますが、グループの中の川島webコンサルタントの社長でもありますからね。だからそのプロジェクトにはあまり顔を出しませんし、僕も頻繁に会える人じゃありませんよ…なのに…専務が間違えたとはいえ、あの時、僕が手紙を届けた訳だから、まるで僕がキューピットじゃないですか!もしうまくいったら、豪勢に奢って下さいよ!」

「うまくいったらね。まぁ、そんな事はないけど」

「あ〜やだやだ、三十路も半ばを過ぎてモテ期を迎えたもんで、そんな事ばかり浮かれてるから次期社長の座を延ばされるんですよ!」

この日も加藤の軽口は饒舌だ。
窓から射し込む陽の光は、今日もギラギラと焼き付けるようだ。今年の夏も暑くなる予感しかしない。
麻友子は左手首の安物の時計を覗き込んだ。

「ささ!馬鹿な事ばかり言ってないで、仕事に取り掛かるわよ!時間がもったいない!」

その時、二人の事務室の扉をノックする音が響いた。

コン、コン、コン。

「おはようございます!社長!」

〜完〜

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文霊 〜フミダマ〜

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