「川崎社長。弁護士さんからは離婚しない場合の慰謝料の相場は幾らくらいかと尋ねてはおりませんか?」
川島は、ヒステリックになった瑠美に動じる事もなく、宥める口調で問いかけた。
麻友子は起きている状況を掴めず、瑠美と川島を交互に見渡し、そして視線を達郎へ移した。達郎は表情を変える事なく成り行きを見守っている。
「主人の不貞行為を確認し、すぐに紹介を受けた弁護士へ相談しましたわ!
相場は最低でも五百万、更に今回は弊社が監査業務を受注しているにも関わらず担当会計士が相手という状況…他にも諸状況からみても金額は上がるだろうとの事を伺ってます!」
「川崎社長、それがあなたが離婚を前提としての場合です。離婚せず相手に慰謝料を請求するなら先程の金額が相場です」
冷静さを欠いても、整然と話せる瑠美には麻友子も感心するしかなかった。この示談の場に川島がいなければ…果たして自分一人ではどうなっていた事かと内心、安堵を感じてもいる。
「では…わかりました。私は離婚を選択すればいいのですね」
瑠美の感情に乱れが見えてきた。麻友子はそうなるだろう展開を読みつつ、自分の処分はまだ不透明である事に動揺している。
川島の態度は変わらず落ち着いたままで、瑠美に再び座るように進めた。
「まぁ、まずは落ち着いて下さい。私の見立てではあなたは落ち着いて対話が出来る人だと評価しているんですよ。
あくまでこの提言を受けるかるどうかも川崎社長、あなたの選択です。もちろん普通であれば離婚という選択は当然です。しかし、それを選ぶ事は安易だと私は思うのですが。
というのも今、ここに新たな女性経営者が立ち上がり、御社が地域経済を牽引してゆくであろう未来に大きく期待している。その船出がこんなスキャンダルで頓挫する事を惜しみもするのです」
瑠美のため息が漏れる音が聞こえた。
「川島社長、話が反れている様にも感じますが」
瑠美の口調は変わらず強気だった。
「では離婚が成立したとしましょう。この場合、あなたはご主人にも慰謝料は請求するでしょう。調停では養育費の話も持ち上がる。そしてあなたは…もしくはご主人は、果たして同じ会社でお務め続ける事は出来ますかな?おそらく無理でしょう。あなたが解雇するまでもなく、彼から去るかもしれない。
ご主人には電気工事に関する技術はお持ちだ。逆に言えばそれ以外に道はないかと考えます。おそらく再就職も他の電気工事店でまた一から出直す事になる」
「それは別れた後のあの人の自由ですわ」
「そう、ご主人の自由です。あなた方の業界の事も詳しくは知りませんので、あくまで素人の考えですが、もしかするとオール電化事業や太陽光発電などの営業なども可能性はありますね」
瑠美は顔にこそ出さなかったが、鋭い経絡を突かれた気になっていた。以前は社内でその分野にも進出すべきかと議論していた。実際に社員を研修にも通わせた。佑志が代表時期に彼の反対により、大きく出遅れ他社に差を付けられた部門である。
その時の選択が、決断が、もし自分に任せられていたのなら、どの様なパラレルワールドへ辿り着いていた事であろう。「タラレバ」な思考が辛かった。
「いかがでしょう?ご主人は営業の仕事は出来る性格ですかな?失礼だが、ご主人が代表を務められていた時代の御社は、転がり続けるローリングストーンだった筈です。技術畑出身だったご主人には経営は重荷だったのだろうと思われます。
私も伊達に年齢だけを重ねてきたわけじゃない。多くの離婚した夫婦とその後を見てきました。
残念な事に定められた養育費も払えずに、お子さんを引き取った多くの女性が泣き寝入りしている現状をです」
瑠美の怒りを眼光に宿したまま、視線を坂上親娘へ向けた。その動作を確認した川島は達郎へ目配りをしてバトンを渡した。
「私ばかりが話してしまいました。失礼しました。坂上、君からも川崎社長へお伝えする事はないか?」
達郎は静かに顎を引き、膝の上に乗せていた両手をテーブルの上に乗せ手を組んだ。麻友子の脳裏には先程の土下座の場面が蘇り、緊張が高まる。
罪深き娘の父親として詫びの言葉を発するのか、坂上会計事務所の社長としての詫びの言葉なのか。
だがそのどちらでも無い、言葉であった。
「川崎社長。自分達の分もわきまえず、発言する事をどうかお許し下さい。現時点では弊社はまだ御社の会計監査を請け負わせて頂けてると思います。一会計士としての立場からです」
達郎の言葉には、先程の悪びれた様子が打って変わって消えていた。瑠美は一瞬眉を寄せたが、すぐに虚を突かれまいと構え直した様だ。
麻友子にとって、展開が目まぐるしく移り過ぎていた。達郎と川島が何か考えがあっての事なのか…胸の高鳴りを抑えている自分に気付いた。
「仮に川崎社長が五百万円以上の額を請求されてきたとして、私が案じているのはそれを御社の財務諸表の中へ巧妙に組み込んだりはしないだろうか…という懸念です。つまり粉飾決算です。
これは仮の話ではありますが、可能性が無い話ではありません。
私共は立場上、御社の状況は把握しております。川島社長もいる手前、守秘もあるので細かい話は避けますが、今回の件で負い目を持つのは手前共です。
もしもその事で手前共が、その粉飾の肩担ぎを…もしくは見過ごしを求められるとすれば…その時は公認会計士の矜持を持ってお断りさせて頂きます」
麻友子にも、3月末を年度末とする川崎電設の財務諸表の数値は頭の中にあった。また、昨今の地銀の貸し剥がしの動きは、前年度の業績を大きく下回る場合、露骨に目立つ空気も既に察知している。
瑠美の計算高さと頭の良さ、そしてこれまでの会話から伝わる会社への責任感、愛社精神と一切の妥協を許さぬ「鬼気」とも言える正義感…達郎が述べた仮説と符号が一致すると感じた。
麻友子は恐る恐る瑠美の顔を見た。瑠美はまさしく鬼の様な目で麻友子を睨み続けていた。その眼力の圧力に臆し、麻友子はまた目を伏せてしまった。
「もちろん、私の思い過ごしである事を祈っておりますが…」
達郎は一言そう捕捉した。
瑠美が何も反論しない状態は、かえって暗黙に図星を示している。麻友子は不謹慎と思いつつも、達郎と川島のこのコンビネーション・プレーをあらためて凄いと見せつけられた思いでいた。
「仮に…仮にそうだとして坂上社長。今のあなた方の立場で、それをこの場で私に言える資格がおありなのかしら」
「川崎社長、ですからこれは、一会計士の立場として申し上げさせて頂きました。この愚かな娘の父親として、又は坂上会計事務所の代表としての立場ではありません。
あなたも経営者となられた今、社長として、妻や母親として、ご自身が様々な顔を持ってゆく事にお気づきになられるでしょう」
愚かな娘…達郎の台詞に心を針で突く感覚があった。
「坂上社長…こちらはその愚かな娘さんに被害に合ってるのよ。そんな理屈で感情を逆撫でして通用するもでも思ってますか?慰謝料とは別に、その娘さんはどうなさるつもりなのでしょう」
「もちろん…社内に置いて娘にも然るべき処分は与えるつもりでおります。それは、経営者の立場として、あなたがご主人に取られた様な対応を見習い、考えます。本当に愚かな事をした…父親としての立場でも言わせて頂くなら、申し訳なさと恥ずかしさで胸が一杯です。だからこそ…」
達郎の声は低く、どこまでも冷静沈着だった。
「だからこそ、あなたにも娘のように愚かな経営者になって欲しくはないのです」
「私が愚か?私はその娘さんとは違う!父が興した会社を守る為に…」
「守る為には粉飾もいとわないと?」
攻防が交わされる度に麻友子は失神しそうだった。気付くと川島は腕を組み成り行きをじっと見つめている。もう麻友子には司直に委ねるだけが精一杯で、この攻防に入る術も余地もない。喉が、いや、もう全身の水分が渇き出していた。
「違う…同じじゃない。同じ訳がないじゃない!」
瑠美は叫んだ。追い詰められた獣の最後の威嚇の様に。
「川崎社長、『嘘つきは泥棒の始まり』という言葉があります。嘘をつくという行為と、人様の物を盗むという行為は一見異なる行為です。
しかし『人に知られなければいい』という考えの根はまったく同じなんです」
瑠美に向けて語られている言葉が、麻友子は自分にも向けられている言葉だと気付いた。歯を食いしばる思いで聞いていた。
「今さえ…今さえ乗り越えれば…」
独りごちるようにこぼす瑠美に、再び川島が声をかけた。
「川崎社長、今さえ乗り越えれば…どうですかな?」
「今さえ乗り越えれば…会社では抜本的な改革を…」
麻友子がふと見ると、瑠美の頬には涙が一筋、つたい落ちている時だった。
話を繋ぐ川島の声が、優しい小川のせせらぎの様に流れてきた。
「また…私の経験談で申し訳ないが。
今まで多くの経営者の方々を見てきた。彼らは会社の資金繰りで危機の時に皆、口を揃えて言った。『今さえ乗り越えれば…』『この山さえ乗り越えれば…』
そうして金を貸してくれと私の元へ来る訳だ。乗り越えられず消えた者も多くいる。そして乗り越えたとしてもだ。多くの者達がリングを降りていった。
結局、資金面で『今さえ乗り越えれば』の言葉が出る時点では詰まっていたんです。将棋で王手をかけられ、その一手を逃げられても次の手でまた詰められる…そんな状況という訳ですな」
「そんな訳にはいきません。働いている従業員の為にも、もちろん私達を信頼してお付き合い頂いてきたお客様の為にも、私は…乗り越えねばならないです!」
言い放つ瑠美の姿は力強く、そしてとても凛としていた。その姿を見て麻友子は本当に自分がいかに小さく、己の保身の為だけに狡猾な手を尽くす卑怯者かを思い知り、自分が悲しかった。
「そう仰ると思ってましたよ。川崎社長。勿論、その乗り越えるべき壁とは、資金面ばかりではない。壁はあらゆる姿で現れる。そして「生きる」という事こそ、「乗り越える」の連続です。
それを理解出来るあなたは、やはり素晴らしい経営者になれる。あなたの会社は潰す訳にはいかない」
川島の声は瑠美を暖かく包み込んでいった。
「御社も決算日まではまだ余裕がありますでしょう?
如何ですかな。我が社の物件の電気点検はすべて御社に任せようと思うし、うちは建設部門もあるんだがね。電気工事の全部という訳にはいかないが、一部は御社に任せようと考えている。地域の経営者仲間にも私から一声かけてゆこうともね」
瑠美は耳を疑っていた。しかし川島の提案はまだ終わらない。
「それにだ。今、やけに中国の企業が空いた土地に太陽光パネルを立ててきおってて、私はそれが面白くない。それで私と対抗してて電力に乗り出そうと思う。どうだろう?私達と提携してみませんか?いや、むしろ御社の力を貸して欲しい」
「川島社長…正直嬉しいお話ですが、何故に初対面の私にそこまで…」
「何、怪しい話だなどと微塵も思わなくて結構です。私は最初の電話で言った筈です。私はあなたを救いたいと」
〜◆〜
麻友子は三人を前に立ち上がり、深く、深く頭を下げた。
「川崎社長…皆さま…本当に申し訳ございませんでした…」
瑠美は言葉を返す気も失せていたろう。冷たい流し目を送るだけだった。
「ずっとお話を伺いながら…川崎社長の会社への思いと自分本位な私を比べ、私は自分の犯した過ちの重さと…そして私には父の仕事を継ぐ資格など無い事を思い知りました」
「当たり前よ…あなたみたいな無責任な人…」
瑠美は言った。
「私は…生涯あなたを許す事はないと思うわ」
麻友子は涙が止めどなく流れていた。今日の会談は蓋を開ければ、罪の裁きと麻友子がこれから経営者として進むに当たり、その器の狭さを三人に炙り出され、痛い程に思い知る機会となった。
川島が再び、重い口を開いた。
「人は間違いを犯す…麻友子さん、何もあなただけを責めるつもりはない。責めるとすれば、川崎社長のご主人も同罪、いや、男こそもっと悪いだろう。川崎社長も…お二人を許せぬ気持ちもよくわかります」
それは慰めなのかはわからない。何故か川島からこぼれる言葉には物哀しさと慈しみが共存するよな空気が漂っていた。
「この部屋を借りている時間はまだある。もしよろしければ、今少し、この老人の昔話にお付き合い頂けないでしょうか」
そう言って川島は三人を見渡し、そして坂上に目配せをした。坂上は黙ったまま川島に頷きを返した。
瑠美は「どうぞ」とだけ返事をした。麻友子は椅子にまた腰を下ろした。
やがて川島が、自分の過去を語り出す。
その話が、どれだけ麻友子に衝撃をもたらす事になろうか、この時はまだ思いもしなかった。
〜◆〜
文霊 〜フミダマ〜
言葉に言霊 文に文霊 ポエム、エッセイ、ドキュメント、ノベル… 長文に短文、そのジャンルに合わせて、 素敵な感性と叙情詩溢れる表現力を磨いて、豊かな文作能力を身に付けたい物です。 そんな表現能力向上委員会のページです。このブログは。
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