Short Story 【苦痛】〜麻友子と瑠美〜 ③

作成中の財務諸表に目を通す瑠美の表情は険しかった。
従業員も皆帰し、夜の暗闇の中、一人残る社内でポツンと灯りを灯した部屋は、まるでそのまま「川崎電設」の様相を呈していると感じていた。
近年、落ち込む業績の中、私が光を与えねばならない。

市の公共事業の電気工事入札も落札から遠のいて久しい。「民間」での仕事を受注してゆこうと、前社長である父親が舵を取り直してから15年程の歳月が流れている。
当時、瑠美は父親の会社で経理として精通しながら父親を支え、一技術士の佑志と社内結婚した事もほぼ時期は重なる。子供も二人授かり、今では息子は中学2年、娘は小学6年になる。

世間はバブル期の遺産でもある不良債権処理の本格的な外科手術に取り掛かる風潮で、多くの経営者達が「実力主義時代の到来」を歓迎し、複雑な思いを抱きながらリストラを敢行した。
それは川崎電設も例外ではなく、瑠美は父親のその苦悩を目の当たりにして見ていた。

社員にこそ風当たりは厳しかったとは思う。当時にはまだ「パワーハラスメント」や「コンプライアンス」などという言葉は浸透もしておらず、サービス残業や厳しいノルマなど、そんな暗黒の時代があった事も否めない。

夫・佑志とも「お前達、経理とか事務方には現場の負担がわかってない」と何度も衝突した。しかし、経理畑にいるからこそ、銀行との軋轢や重圧を知っている。
それでもこの頃は、地元企業の電気点検などの契約を順調に取ったり、地元工務店から新築物件の仕事を回してもらったり、数字の上では順調だった。

2010年代に入り、風向きは変わり出してきた。「心の価値観」やライフ・ワーク・バランスを重んじる雰囲気に。
東日本大震災もあり、多くの人々に死生観、人生観を問わせる動機ともなったであろう。
だがもっとも企業経営に影響を及ばせたのは「人口減少」だった。最初は大手ならいざ知らず、一地方の中小企業には関係のない話だと思った。それは「人口減少→顧客の減少」と瑠美も単純に解釈していたが、それだけでは済まなかった。

まずやってきた波は「働き手の減少」人手不足である。
父親が若い頃、一緒に立ち上げた老兵達が一気に引退。そこを埋めるべく採用した若者達は「ゆとり世代」彼らを定着させる、時代にマッチした教育スキルを川崎電設は持っていなかった。昔からの職人世界の社員教育である。
もう「アラフォー」と呼ばれる年齢に差し掛かる瑠美と佑志が一番若い世代となっていた。
父親もこれからはお前達の時代だとバトンを渡し、会長職に会社に席を残しつつも、瑠美や佑志のやる事に口を挟む事もなく事実上の引退だった。

ほどなくして大手がこの地域にも進出してきた。働き方改革のムード、そして実際に法案も押し寄せてきた。
とても今、大手とのコスト競争に打ち勝つ力は川崎電設にはない。そして地元企業も経営陣の代替わりが相次ぎ、定期の電気点検契約ですらもコスト見直しに晒される。

【抜本的な改革】が必要だった。

麻友子も業種こそ違えど、立場が同じであろう事は瑠美も理解はしていた。
地域の経済が疲弊し、衰退してゆく中で、先代達が築き上げた功績に泥を塗る事がない様、時同じくして代替わりした (或いは代替わりする) 次世代経営者達を勝手に戦友だと思っていた。
だからこそだ。その思いがかえって瑠美の怒りを炎上させていた。
ましてや夫・佑志も共謀しての裏切りだ。

佑志はずっと現場に立っていた男である。経営者として会社を俯瞰する視点もその采配を仕切る才覚も、持ち合わせていなかった事など皆、最初からわかり切っていた。
それでも瑠美は男として夫を立てた。今、それは足りなくても必ずいつかは…その思いで辛抱強く待ち続けた。

佑志は頻繁に電気工事業組合や地元商工会、法人会の会合に出かけていた。その中で繋がる人脈からも仕事か入り込んでくるだろうとの期待を抱きつつ、瑠美は夫を通わせ続けた。社長になった佑志自らも一営業マンとして、電気点検の見積を渡しにも飛び回っていた。
どこかから新規の契約が転がり込んでくる事はなかった。

瑠美は帳簿の数字を睨みながら、あの場面を思い出す。
ある古参の技術士が個人的に相談があると、会議室で二人で面談を行った時だった。

「専務(当時の瑠美の役職)…実は相談というよりは、これは告発です。言うべきか自分の胸にとどめておくべきか、ずっと悩んでいました。
社長が女性とホテルから出てくる所を見ていました」

その社員は涙を目に溜めていた。
瑠美や佑志よりも年は少し上だが、親子二代に渡り会社に貢献してくれてきた男である。そしてその父親はかつての2000年代のリストラ期に、定年まであと2年程で早期退職の憂き思いを負った過去を持つ。
その父親が会社を去る時に、息子や瑠美、佑志達が居合わせていた事務室で最後に言った台詞も覚えている。

「これからは君達若いモンが、会社を更に繁栄させてってくれると信じてる。君達の時代だ」

思い出しながら、瑠美は書類を握る手を震わせていた。
経営者は、社員と社員の家族の生活、そして生き甲斐や幸せにも責任を持つ者だ。

絶対に、経営者の端くれとして彼らだけは許せない。

〜◆〜

麻友子は自分のマンションで、テーブルにスマホを置いてただ、それを見つめてソファに座っていた。
20時を過ぎ、更けてゆく夜は静けさで辺りを包んでゆくだろうが、もしかするとまだ、佑志が電話をかけてきてくれるかもしれないと、募る想いで待っていた。

父・達郎には体調を崩して早退する事は留守電には入れたものの、それきりあらためて電話もかけてなければ、折り返しの電話もない。この時期、娘の体調が悪化すれば、月末に向けて更に立て込むこの時期、ゆっくりと休養させて引きずらせない方が良いと気遣ったのだろう。そう思う事にしていた矢先

「ピンポーーン」

インターホンを鳴らしたのは達郎だった。

「どうしたの?」

「どうしたのじゃないだろう。娘が体調を崩して寝込んでいるというんだ。心配してかけつけて何かまずい事でもあったのかね?」

「大げさよ。お陰で辛いのは通り過ぎたから。明日にはまたいつも通りに出社するわよ、お父さん」

後ろ髪を引かれる思いを抑え、一言一言を慎重に平静を装いながら言葉を発した。
坂上親子は勤務時間内か外かで、呼び名のオンとオフも切り替えている。しかし今は達郎が社長だろうが父親だろうが、後任としても娘としても自分の不浄の存在を居た堪れなく感じるだけだった。
そして達郎は麻友子が恐れていた言葉を口にした。

「おい、父親が訪ねてきたというのに、いつまでここに立たせておくんだ?すぐ帰るよ。少し立ち寄らせてくれないか?」

「え…寄るの?」

つい反射的に口走ってしまった。
が、断わる事は出来ない。エントランスの扉を開ける操作をした。やがて達郎は8Fの麻友子の玄関までたどり着いた。

「なんだ?そのままか。部屋着でいるかと思ったぞ」

迂闊だった。もし佑志から電話がかかってこようものなら、そして会えるのなら、すぐ出かけられる様にと昼間の服装のままだった。

「帰ってきて、あまりの具合の悪さにそのままソファに寝込んでしまってたの」

達郎は右手に持っていた差し入れのトートバッグを差し出した。中には果物や栄養ドリンク剤、冷凍食品などが乱雑に入っている。
麻友子は母親が亡くなった時の事を思い出してにた。料理の出来ない達郎が、こうしていつもスーパーマーケットで調理の簡単な、もしくは調理のいらない食材ばかりを買い込んで帰っていたあの頃を。
達郎は年齢の割にはメタボリックな体質も見当たらず、スタイリッシュなスーツが本当に似合う、ダンディズム漂う男だ。実年齢よりも10歳以上は若く見えるだろう。そんな父親を誇らしく思っている部分も麻友子の中にはあった。

そのトートバッグを受け取って礼を述べた。
「ありがとう」
胸が締めつけられる思いだった。

達郎は靴を脱いだ。麻友子は達郎をついて来させてリビングへ迎え入れた。
達郎は久しぶりに入る娘の整頓の行き届いた部屋を見渡し、安心した様に言った。

「綺麗にしているな。何事も一事が万事。仕事でもプライベートでも、整理整頓は基本だからな。このままの状態を維持しろよ」

「また始まった。それは社長として言ってるの?父親として?私を何歳と思ってるの?昔からもう整理整頓する習慣は染み付いていたじゃない?」

「ははは、わかってはいるけどな。何せお前の部屋に入るのは久しぶりだ。漠然と信じるだけじゃなく、この目で見て安心する事もあるじゃないか」

そう言って達郎はソファに座り込んだ。

「それにだな…心が乱れた時や、よほど追い詰められた時だ、問題は。いとも簡単に習慣などぶち破ってしまう。私はそんな人間も数多く見てきた」

麻友子は息を飲むしかなかった。達郎は何か知っているのか?心臓の鼓動が胸を突き破りそうだった。

「え?…何それ?私が今、心が乱れてるって事?」

「問題の時は、そうゆう時だという事だよ」

麻友子の心は警戒モードに入る。達郎に背を向け、キッチンへ向かった。

「夜だしカフェインは避けた方がいいよね?烏龍茶でいい?いい香りのお茶があるのよ」

「いや、このままでいい。麻友子も掛けなさい」

麻友子は黙って従い、L字に配置されたソファに腰をかけた。何か言わねばと案じ続けながら。
頭の中では瑠美の言葉が反復していた。
今が、自分の犯した罪を打ち明ける時なのか?
言えるのか?私は父親にあの事を言えるのか?それとも何か嘘をつくのか?つけるのか?
もう自分がわからなくなっていた。

ただ、頭の片隅では選択の余地が無い事はわかっていた。明日までのタイムリミット。今、言わないにせよ、問題を先送りするだけだ。
そうでなければ瑠美は、次はどんな手を打ってくるかわからない。その事が何よりの恐怖だった。

「加藤くんから聞いたぞ。川崎さんの件だ」

ある程度、予想はついていた。加藤に対してはその場を凌いだだけで、そして自分はその場から逃げてきただけとも言える。

「あぁ、その事なら…」

「あまり無いケースだからな」

達郎が麻友子を塞ぐ様にかぶせてきた。
麻友子は達郎の射抜く様な視線を見返して、狼狽る感情が漏れるのを必死に堪えていた。まるで硬い鎧を着込みつつも、その鎧がかち合う物音を一切出さない様にと。動けなくなっていた。

「何があった?」

「別に…先方の会社で、何か退っ引きならない事情があったんでしょうね。私も驚いたの…」

「加藤くんは、何でも先方が加藤くんに経験を積ませる為にとご指名をしたとお前から聞いたと言ってる。
川崎さんトコの今期の状態はあまり芳しく無い筈だが、それにしてもなんて余裕ある、寛大な話だとは思わないか?」

「そうね…」

言葉が続かなかった。そして麻友子は虚空を見上げ、達郎からの視線から外れた。
ため息が出た。

達郎は黙って娘を見つめ続けていた。どの位の時間が流れているのだろうか?長いのか。短いのか。
沈黙が痛みに変わってきた。
達郎の視線は突き刺さり続けている。痛い。この痛みは、冬に味わった小さな静電気の感電の痛みだ。

父親は見抜いている。娘も父親が見抜いている事を気付いている。
詳細は知るまい。ただ、娘が何かを隠している事を、何かから逃げている事を父親は見抜いている。

何か 何か話さねば…

言葉を出そうとして唇を開く。口の中に入り込んだ空気がドライヤーの強い温風の様に、喉を一気に渇かせた。声が 出ない…
喉を湿らせていた水分は何処へ?何処へ消えたの?
私の水分…
それは潮が引くかの様に体内へ逆流していた。
達郎の視線の感電痛は絶えず、全身をピリッ、ピリッと刺してくる。それは体内の水流を追って放電してくるかの様に。

引いてゆく水分は一度胃の底に落ち、そしてそこから顔面へ一気に込み上げてゆく感覚があった。

見える部屋の景色が歪んだ。

虚空を見上げていた麻友子の両の目から、一気に水分が溢れ出た。涙は両頬をつたい滴り落ちる。

それでも達郎は娘の涙を何も言わずに見つめている。ただ、その視線は既に射抜く眼光は緩んでいた。

麻友子はしゃくり上げながら、ようやく一言、言葉を解放した。

「ごめんなさい…お父さん…」

〜◆〜



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文霊 〜フミダマ〜

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