東京タワーを見上げた。
僕はあの人を思い出していた。僕を産んだあの人を。
〜◆〜
その時、ホールの照明のストロボは目まぐるしく光と陰を切り替えて、踊る人の群れは雑なコマ送りのアニメを見ている様だった。
僅か5メートル程先だった。彰と裕美はくちづけを交わしていた。
持っていたコロナの瓶が手のひらから滑り落ちた。
クラブ内の空気は、巨大なハンマーで規則正しく叩きつける様に重低音に震えを止めない。腹の奥底まで響き、鼓動とシンクロする。
なんという日だ。これが夢であったらいいのに。いや、夢でも僕は苦しんでいたに違いない。ここがまだ、僕が世の中を知らない母親の胎内であったらどれ程良かったか。
母親の胎内?その時、僕の中に封じ込めた筈の記憶が扉を開けた気がした。
気がつくと僕は地下のその店を後にして、外苑東通りをあてもなく歩いていた。帰るべき地下鉄の駅は反対の方向だった。ただ、夜風に吹かれていたかった。
車のライトの列が光の河の様に見える。耳鳴りは止まない。そして先ほど見た二人の場面も。何度も何度も脳裏に蘇る。
くちづけを交わす二人。抱き合う二人。そして彼女は僕を振り向く。だけどその顔は裕美の顔ではなかった。かき消そうとすればする程、その妄想は何度も何度も蘇った。
〜◆〜
仕事でヘマをした。今日だけではない。ここ最近はずっとだ。毎日、課長に怒られている。
それはそうだろう。ここ数ヶ月、僕は自分の居場所は本当にここでいいのか?と自問を繰り返し、心ここにあらずだったのだから。
夜の街を彷徨う僕の様に、僕の心も漂流し続けていたんだ。都会という海の中を。
僕を元気付ける為に、クラブへでも繰り出そうと誘ってくれたのは彰だった。
彼は容姿も僕より遥かに端正で、調子者がたまに傷な部分もあるが、細かい気遣いも行き届くいわゆる「いい男」だ。
ありがたかった。ありがたかったが彼はただ、裕美に友情に熱い男である事を見せつけて、彼女の気を引こうとでもしてたのだと勝手に思っていた。彼も裕美に気がある事は気づいていた。
そして僕と裕美が付き合っていた事は、誰にも知らせてはいなかった。心を許すべき彰にも。知らせておけばこんな事にはならなかったのか。
そう、僕は恐れていたのかもしれない。裕美は僕と付き合っていながらも、本当は彰を愛していたのではないかと。何に置いても自分に自信が持てなかったのだ。
やがて閑静な飯倉の交差点にたどり着いた時、着信に気がついた。裕美からだった。もう何度もかけていた様だった。
〜◆〜
「もしもし?賢治?今どこにいるの!?」
僕は咄嗟には声を出せずにいた。
「ねぇ、聞こえてるんでしょ?教えて。どこにいるの?」
「ごめん…今日は帰るよ。明日も早いし…」
「だからって…なんで勝手にいなくなっちゃうのよ……ねぇ、もしかして…さっきの…見たんでしょ…」
「何の事だよ」
相変わらず僕は嘘が下手だ。
そもそも二人の関係を今も親友でいる筈の彰にも秘めていた事が原因じゃないか。彼女の弁解にも耳を傾ければ良いのに、何をそんなに臆病なのだろう。僕は。
沈黙が二人を包んでいた。
「あれは…彰がいきなり私に…」
「まだそこにいるんだろ?彰…」
僕は携帯を耳にあてたまま、坂道を上った。
「いないよ。賢治が店を出てったみたいだって彰が言って、私も追いかけて出てきたよ。彰の事は置いて…ねぇ、どこにいるの?教えて」
「ボチボチ着くよ…」
「墓地?もしかして…青山霊園?」
聞き間違えた様だ。僕の滑舌が悪かったのだとは思う。こんな時でも悪気なく染み込んでくる、彼女の可愛らしさが込み上げ、どこか救われた様な気がする。今すぐに彼女に会って抱きしめたい衝動に駆られた。
だが今の僕は、何故かこの坂道を一人で上り切る方が大事に思えた。この先に、東京タワーがある。そこに何があるかはわからない。ただ運命に導かれる様に。
「ボチボチだ…」
僕は電話を切った。
〜◆〜
母は離婚した後、幼かった僕を連れて東京へ出てきた。最初に「賢ちゃんに東京らしい物を見せてあげる」と言ってついてきた場所が東京タワーだった。
展望台から見下ろす街や、遠くに富士山を興奮しながら見据えた僕は、お陰で父親と離れた寂しさを紛らわせる事が出来ていた。
その時、ふと母を見上げると彼女は静かに涙を流していた事を思い出す。理由は聞けなかった。
それ以降、転校先でも友達が出来る事もなく、僕は孤独だった。子供ながらにも、時の流れの速度が田舎とはまるで違う事には気づいた。そして子供ながらにもう一つ、その速い時について行ける様に振る舞おうと決めていた。母に心配をかけたくなかったのだ。当時はもう、たった一人の肉親だったのだから。
母は夜の仕事で生活を繋ぎ、酔って帰宅する日も続いたが、それでも彼女の愛を感じない日はなかった。
そんな日々は何年も続き、僕が高校生になったある日の事、何の前触れもなく、突然にピリオドを打たれた。母は僕を残して交通事故でこの世を去ったのだ。
母の葬儀後、分かれた父親と二人で会う事があった。
渋谷のビルの高層階で、見下ろす街の蠢きと喧騒を一切遮る落ち着いたカフェだった。
久しぶりに会う父親は、僕が抱えていた面影よりもずっと老けていた様に感じた。
「大変だったな」
どこか他人事の様に放った父の言霊は、この人はもう家族ではないんだな、と至極自然に僕の中にスッと入り込んだ。
「あの男の世話になるんだってな」
母が交際していた桐生さん(僕は今も彼をそう呼んでいる)の事を言った。桐生さんは自分で起こした会社を経営しており、母の働く店の客だと紹介されていた。これまでも何度か会っている。
母と桐生さんは、僕が大学を卒業すれば結婚するつもりだと打ち明けていた。しかしこんな結末になり、この後の僕の生活や学費も桐生さんが養子として面倒を見てもらう事になっていた。
父が「あの男」と呼ぶ事に小さな不快感を覚えた。
「父さんは?変わりはなかった?」
話題を変えた。
父もあの土地で再婚し、新しい家庭を築いている事は知ってはいた。
「まあな。こちらはこちらでボチボチやってきたよ…」
ボチボチという状況がまるでわからない。ただこの瞬間、大人の使う言葉として僕の深層に擦り込まれた事は間違いなかった。
父はこの後、話し出した。
「よくドラマでもあるだろう?別れた親が離れ離れになった子供に会いに来て『父さんを許して欲しい』なんて言うチープな場面が。今日の俺はそれをしに来た」
僕は注文したジュースで一口飲んだ。無意識に父の話を真剣に聞く気はないと言う事を、態度で示したかったのだろうと思う。密かな抵抗だった。
顔も窓の外を見ていた。
だがその後の話に僕は父と否応無しに向き合う事になる。
「あいつが俺を裏切って、あの男と過ちを犯した時に俺はどうしても許す事が出来なかった。お前という子供もいながらな。俺もまだまだ若かったんだろうな…あの時、もし俺があいつを許す事が出来ていれば…お前とはどんな生活が送れただろう?考えなかった日はないよ」
僕の中で時系列が乱れ、困惑した。
「え?何を言ってるの?」
父はアイスコーヒーを口に運び、一口飲んでから答えた。
「母さんと桐生の事だよ。あぁ、もしかしてそれは聞いていなかったか?俺たちの離婚した理由は…」
僕は言葉を失った。
「すまなかった。それもそうだな。俺は別れてからお前の事を何一つ面倒見ていない。その点、あいつも桐生もお前の事をしっかりと一人前の男に仕上げようとしてきた。俺が悪者で収まっていた方が良かったな」
僕はたしかその時、父に真実を求めた。だが父は、その後もただ「すまなかった」と言うだけで、何も語ってはくれなかった。
「じゃあな。ボチボチ地元へ帰るとするよ」
父からの二度目のボチボチは苦く胸を締め付けた。僕は何もわかっていなかった。
「お前とこんな東京の洒落た街で過ごす時間が持てるとは思わなかったよ。母さんの事は本当に冥福を祈ってる。この先、何かこんな父さんにでも力になれる事があれば、遠慮なく言ってきてくれ」
ビルを出て、渋谷駅前の雑踏に飲まれてゆく父を見送った。やがてその背中はボチボチと見えなくなっていった。
〜◆〜
東京タワーの足元に辿り着いた。
そして僕は、東京タワーを見上げた。
僕はあの人を思い出していた。僕を産んだあの人を。
再びあの妄想が蘇る。くちづけを交わす二人。抱き合う二人。そして彼女は僕を振り向く。その顔は裕美の顔ではなく、母の顔だった。
見知らぬ男に抱かれながら、彼女は僕に囁いた。
「許してあげて。賢治。彼女の話を聞いてあげて」
その時、息を切らせながら僕に近づいてくる気配に振り向いた。裕美だった。
「賢治……」
哀しげに僕を見つめていた。
僕は東京タワーに踵を返し、裕美へ歩み寄って言った。
「さぁ。ボチボチ帰ろうか」
文霊 〜フミダマ〜
言葉に言霊 文に文霊 ポエム、エッセイ、ドキュメント、ノベル… 長文に短文、そのジャンルに合わせて、 素敵な感性と叙情詩溢れる表現力を磨いて、豊かな文作能力を身に付けたい物です。 そんな表現能力向上委員会のページです。このブログは。
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